たゞサアッと雨が降つてゐる。
 頼む。
 また呼んだ。例の如くやゝしばし音沙汰が無かつた。少し焦《じ》れ気味になつて、また呼ばうとした時、鼬《いたち》か大鼠かが何処かで動いたやうな音がした。すると頓《やが》て人の気はひがして、左方の上り段の上に閉ぢられてゐた間延びのした大きな障子が、がた/\と開かれて、鼠木綿が斑汚《むらよご》れした着附に、白が鼠になつた帯をぐる/\と所謂坊主巻に巻いた、五分苅では無い五分生えに生えた頭の十八か九の書生のやうな僮僕《どうぼく》のやうな若僧が出て来た。晩成先生も大分遊歴に慣れて来たので、此処で宿泊謝絶などを食はせられては堪らぬと思ふので、ずん/\と来意を要領よく話して、白紙に包んだ多少銭《なにがし》かを押付けるやうに渡して仕舞つた。若僧はそれでも坊主らしく、
 しばらく、
と、しかつめらしく挨拶を保留して置いて奥へ入つた。奥は大分深いかして何の音も聞えて来ぬ、シーンとしてゐる。外では雨がサアッと降つてゐる。
 土間の中の異つた方で音がしたと思ふと、若僧は別の口から土間へ下りて、小盥へ水を汲んで持つて来た。
 マ、兎に角御すゝぎをなさつて御上りなさいまし。
 しめたと思つて晩成先生泥靴を脱ぎ足を洗つて導かるゝまゝに通つた。入口の室《へや》は茶の間と見えて大きな炉が切つてある十五六畳の室であつた。そこを通り抜けて、一畳幅に五畳か六畳を長く敷いた入側《いりかは》見たやうな薄暗い部屋を通つたが、茶の間でも其部屋でも処※[#二の字点、1−2−22]で、足踏につれてポコ/\と弛んで浮いて居る根太板のヘンな音がした。
 通されたのは十畳位の室で、そこには大きな矮《ひく》い机を横にして此方へ向直つてゐた四十ばかりの日に焦けて赭い顔の丈夫さうなヅク入が、赤や紫の見える可笑しい程|華美《はで》では有るが然しもう古びかへつた馬鹿に大きくて厚い蒲団の上に、小さな円い眼を出来るだけ※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]開《さうかい》してムンヅと坐り込んでゐた。麦藁帽子を冠らせたら頂上《てつぺん》で踊を踊りさうなビリケン頭に能く実が入つて居て、これも一分苅では無い一分生えの髪に、厚皮らしい赭い地が透いて見えた。そして其の割合に小さくて素敵に堅さうな首を、発達の好い丸※[#二の字点、1−2−22]と肥つた豚のやうな濶い肩の上にシッカリすげ込んだやうにして、ヒョロ/\と風の柳のやうに室へ入り込んだ大器氏に対つて、一刀をピタリと片身青眼に擬《つ》けたといふ工合に手丈夫な視線を投げかけた。晩成先生聊かたぢろいだが、元来正直な君子で仁者敵無しであるから驚くことも無い、平然として坐つて、来意を手短に述べて、それから此処を教へて呉れた遊歴者の噂をした。和尚は其姓名を聞くと、合点が行つたのかして、急にくつろいだ様子になつて、
 アヽ、あの風吹烏《かざふきがらす》から聞いておいでなさつたかい。宜うござる、いつまででもおいでなさい。何室《どこ》でも明いてゐる部屋に勝手に陣取らつしやい、其代り雨は少し漏るかも知れんよ。夜具はいくらもある。綿は堅いがナ。馳走はせん、主客平等と思はつしやい。蔵海《ざうかい》、(仮設し置く)風呂は門前の弥平爺にいひつけての、明日から毎日立てさせろ。無銭《たゞ》ではわるい、一日三銭も遣はさるやうに計らへ。疲れてだらう、脚を伸ばして休息せらるゝやうにしてあげろ。
 蔵海は障子を開けて庭へ面した縁へ出て導いた。後に跟いて縁側を折曲つて行くと、同じ庭に面して三ツ四ツの装飾も何も無い空室《あきま》があつて、縁の戸は光線を通ずる為ばかりに三寸か四寸位づゝすかしてあるに過ぎぬので、中はもう大に暗かつた。此室《こゝ》が宜からうといふ蔵海の言のまゝ其室の前に立つて居ると、蔵海は其処だけ雨戸を繰つた。庭の樹※[#二の字点、1−2−22]は皆雨に悩んでゐた。雨は前にも増して恐しい量で降つて、老朽《おいく》ちてジグザグになつた板廂《いたびさし》からは雨水がしどろに流れ落ちる、見ると簷《のき》の端に生えて居る瓦葦《しのぶぐさ》が雨にたゝかれて、あやまつた、あやまつたといふやうに叩頭《おじぎ》して居るのが見えたり隠れたりしてゐる。空は雨に鎖されて、たゞさへ暗いのに、夜はもう逼つて来る。中※[#二の字点、1−2−22]広い庭の向ふの方はもう暗くなつてボンヤリとしてゐる。たゞもう雨の音ばかりザアッとして、空虚にちかい晩成先生の心を一ぱいに埋め尽してゐるが、ふと気が付くと其のザアッといふ音のほかに、また別にザアッといふ音が聞えるやうだ。気を留めて聞くと慥に別の音がある。ハテナ、彼の辺か知らんと、其の別の音のする方の雨煙濛※[#二の字点、1−2−22]たる見当へ首を向けて眼を遣ると、もう心安げになつた蔵海が一寸肩に触つて、
 あの音のするのが滝ですよ
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