家のある辺一帯は一大盆地を為している事位の地勢の概略を聞き得たに過ぎなかったが、蔵海も和尚も、時※[#二の字点、1−2−22]風の工合でザアッという大雨の音が聞えると、ちょっと暗い顔をしては眼を見合せるのが心に留まった。
 大噐氏は定められた室へ引取った。堅い綿の夜具は与えられた。所在なさの身を直《すぐ》にその中に横たえて、枕許《まくらもと》の洋燈《ランプ》の心《しん》を小さくして寝たが、何となく寐つき兼ねた。茶の間の広いところに薄暗い洋燈《ランプ》、何だか銘※[#二の字点、1−2−22]《めいめい》の影法師が顧視《かえりみ》らるる様な心地のする寂しい室内の雨音の聞える中で寒素《かんそ》な食事を黙※[#二の字点、1−2−22]として取った光景が眼に浮んで来て、自分が何だか今までの自分でない、別の世界の別の自分になったような気がして、まさかに死んで別の天地に入ったのだとは思わないが、どうも今までに覚えぬ妙な気がした。しかし、何の、下《くだ》らないと思い返して眠ろうとしたけれども、やはり眠《ねむり》に落ちない。雨は恐ろしく降っている。あたかも太古から尽未来際《じんみらいざい》まで大きな河の流《ながれ》が流れ通しているように雨は降り通していて、自分の生涯の中《うち》の或日に雨が降っているのではなくて、常住不断《じょうじゅうふだん》の雨が降り通している中に自分の短い生涯がちょっと挿《はさ》まれているものででもあるように降っている。で、それがまた気になって睡《ねむ》れぬ。鼠が騒いでくれたり狗《いぬ》が吠えてくれたりでもしたらば嬉しかろうと思うほど、他には何の音もない。住持も若僧もいないように静かだ。イヤ全くわが五官の領する世界にはいないのだ。世界という者は広大なものだと日頃は思っていたが、今はどうだ、世界はただこれ
 ザアッ
というものに過ぎないと思ったり、また思い反《かえ》して、このザアッというのが即ちこれ世界なのだナと思ったりしている中《うち》に、自分の生れた時に初めて拳げたオギャアオギャアの声も他人の※[#「囗<力」、64−6]地《ぎゃっと》いった一声も、それから自分が書《ほん》を読んだり、他の童子《こども》が書《ほん》を読んだり、唱歌をしたり、嬉しがって笑ったり、怒って怒鳴《どな》ったり、キャアキャアガンガンブンブングズグズシクシク、いろいろな事をして騒ぎ廻ったりした一切の音声《おんじょう》も、それから馬が鳴き牛が吼《ほ》え、車ががたつき、※[#「さんずい+氣」、第4水準2−79−6]車が轟き、※[#「さんずい+氣」、第4水準2−79−6]船が浪を蹴開《けひら》く一切の音声も、板の間へ一本の針が落ちた幽《かす》かな音も、皆残らず一緒になってあのザアッという音の中に入っているのだナ、というような気がしたりして、そして静かに諦聴《たいちょう》すると分明《ぶんみょう》にその一ツのザアッという音にいろいろのそれらの音が確実に存していることを認めて、アアそうだったかナ、なんぞと思う中《うち》に、何時《いつ》か知らずザアッという音も聞えなくなり、聞く者も性《しょう》が抜けて、そして眠《ねむり》に落ちた。
 俄然《がぜん》として睡眠は破られた。晩成先生は眼を開くと世界は紅《あか》い光や黄色い光に充たされていると思ったが、それは自分の薄暗いと思っていたのに相異して、室《へや》の中が洋燈《ランプ》も明るくされていれば、またその外《ほか》に提灯《ちょうちん》などもわが枕辺《まくらべ》に照されていて、眠《ねむり》に就いた時と大《おおい》に異なっていたのが寝惚眼《ねぼけまなこ》に映ったからの感じであった事が解った。が、見れば和尚も若僧もわが枕辺にいる。何事が起ったのか、その意味は分らなかった。けげんな心持がするので、頓《とみ》には言葉も出ずに起直《おきなお》ったまま二人を見ると、若僧が先ず口をきった。
 御やすみになっているところを御起しして済みませんが、夜前《やぜん》からの雨があの通り甚《ひど》くなりまして、渓《たに》が俄《にわか》に膨《ふく》れてまいりました。御承知でしょうが奥山の出水《でみず》は馬鹿に疾《はや》いものでして、もう境内にさえ水が見え出して参りました。勿論《もちろん》水が出たとて大事にはなりますまいが、此地《ここ》の渓川の奥入《おくいり》は恐ろしい広い緩傾斜《かんけいしゃ》の高原なのです。むかしはそれが密林だったので何事も少かったのですが、十余年|前《ぜん》に悉《ことごと》く伐採したため禿《は》げた大野《おおの》になってしまって、一[#(ト)]夕立《ゆうだち》しても相当に渓川が怒《いか》るのでして、既に当寺の仏殿は最初の洪水の時、流下《りゅうか》して来た巨材の衝突によって一角《いっかく》が壊《やぶ》れたため遂に破壊してしまったのです。その後は上流に巨材などはありませんから、水は度※[#二の字点、1−2−22]《たびたび》出ても大したこともなく、出るのが早い代りに退《ひ》くのも早くて、直《じき》に翌日《あくるひ》は何の事もなくなるのです。それで昨日《きのう》からの雨で渓川はもう開きましたが、水はどの位で止まるか予想は出来ません。しかし私どもは慣れてもおりますし、此処《ここ》を守る身ですから逃げる気もありませんが、貴方《あなた》には少くとも危険――はありますまいが余計な御心配はさせたくありません。幸《さいわい》なことにはこの庭の左方《ひだり》の高みの、あの小さな滝の落ちる小山の上は絶対に安全地で、そこに当寺の隠居所の草庵があります。そこへ今の内に移っていて頂きたいのです。わたくしが直《すぐ》に御案内致します、手早く御支度《おしたく》をなすって頂きます。
ト末の方はもはや命令的に、早口に能弁《のうべん》にまくし立てた。その後《あと》について和尚は例の小さな円い眼に力を入れて※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]開《そうかい》しながら、
 膝まで水が来るようだと歩けんからノ、早く御身繕《おみづくろ》いなすって。
と追立てるように警告した。大噐晩成先生は一[#(ト)]たまりもなく浮腰《うきごし》になってしまった。
 ハイ、ハイ、御親切に、有難うございます。
ト少しドギマギして、顫《ふる》えていはしまいかと自分でも気が引けるような弱い返辞をしながら、慌《あわ》てて衣を着けて支度をした。勿論少し大きな肩から掛ける鞄《カバン》と、風呂敷包《ふろしきづつみ》一ツ、蝙蝠傘《こうもり》一本、帽子、それだけなのだから直《すぐ》に支度は出来た。若僧は提灯を持って先に立った。この時になって初めてその服装《みなり》を見ると、依然として先刻《さっき》の鼠の衣だったが、例の土間のところへ来ると、そこには蓑笠《みのかさ》が揃えてあった。若僧は先ず自《みずか》ら尻を高く端折《はしょ》って蓑を甲斐※[#二の字点、1−2−22]※[#二の字点、1−2−22]《かいがい》しく手早く着けて、そして大噐氏にも手伝って一ツの蓑を着けさせ、竹の皮笠《かわがさ》を被《かぶ》せ、その紐《ひも》を緊《きび》しく結んでくれた。余り緊しく結ばれたので口を開くことも出来ぬ位で、随分痛かったが、黙って堪えると、若僧は自分も笠を被《かぶ》って、
 サア、
と先へ立った。提灯の火はガランとした黒い大きな台所に憐れに小さな威光を弱※[#二の字点、1−2−22]と振った。外は真暗《まっくら》で、雨の音は例の如くザアッとしている。
 気をつけてあげろ、ナ。
と和尚は親切だ。高※[#二の字点、1−2−22]《たかだか》とズボンを捲《まく》り上げて、古草鞋《ふるわらじ》を着けさせられた晩成|子《し》は、何処《どこ》へ行くのだか分らない真黒暗《まっくらやみ》の雨の中を、若僧に随《したが》って出た。外へ出ると驚いた。雨は横振《よこぶ》りになっている、風も出ている。川鳴《かわなり》の音だろう、何だか物凄《ものすご》い不明の音がしている。庭の方へ廻ったようだと思ったが、建物を少し離れると、なるほどもう水が来ている。足の裏が馬鹿に冷《つめた》い。親指が没する、踝《くるぶし》が没する、脚首《あしくび》が全部没する、ふくら脛《はぎ》あたりまで没すると、もうなかなか渓《たに》の方から流れる水の流れ勢《ぜい》が分明にこたえる。空気も大層冷たくなって、夜雨《やう》の威がひしひしと身に浸みる。足は恐ろしく冷い。足の裏は痛い。胴ぶるいが出て来て止まらない。何か知らん痛いものに脚の指を突掛《つっか》けて、危く大噐氏は顛倒しそうになって若僧に捉《つか》まると、その途端に提灯はガクリと揺《ゆら》めき動いて、蓑の毛に流れている雨の滴《しずく》の光りをキラリと照らし出したかと思うと、雨が入ったか滴がかかったかであろう、チュッといって消えてしまった。風の音、雨の音、川鳴の音、樹木の音、ただもう天地はザーッと、黒漆《こくしつ》のように黒い闇の中に音を立てているばかりだ。晩成先生は泣きたくなった。
 ようございます、今更帰れもせず、提灯を点火《つけ》ることも出来ませんから、どうせ差しているのではないその蝙蝠傘《こうもり》をお出しなさい。そうそう。わたくしがこちらを持つ、貴方《あなた》はそちらを握って、決して離してはいけませんよ。闇でもわたしは行けるから、恐れることはありません。
ト蔵海先生|実《じつ》に頼もしい。平常は一[#(ト)]通りの意地がなくもない晩成先生も、ここに至って他力宗《たりきしゅう》になってしまって、ただもう世界に力とするものは蝙蝠傘《こうもり》一本、その蝙蝠傘《こうもり》のこっちは自分が握っているが、むこうは真の親切者が握っているのだか狐狸《こり》が握っているのだか、妖怪変化、悪魔の類《たぐい》が握っているのだか、何だか彼《か》だかサッパり分らない黒闇※[#二の字点、1−2−22]《こくあんあん》の中を、とにかく後生《ごしょう》大事にそれに縋《すが》って随《したが》って歩いた。
 水は段※[#二の字点、1−2−22]足に触れなくなって来た。爪先上《つまさきあが》りになって来たようだ。やがて段※[#二の字点、1−2−22]|勾配《こうばい》が急になって来た。坂道にかかったことは明らかになって来た。雨の中にも滝の音は耳近く聞えた。
 もうここを上《のぼ》りさえすれば好いのです。細い路ですからね、わたくしも路でないところへ踏込《ふんご》むかも知れませんが、転びさえしなければ草や樹で擦りむく位ですから驚くことはありません。ころんではいけませんよ、そろそろ歩いてあげますからね。
 ハハイ、有り難う。
ト全く顫《ふる》え声だ。どうしてなかなか足が前へ出るものではない。
 こうなると人間に眼のあったのは全く余り有り難くありませんね、盲目《めくら》の方がよほど重宝《ちょうほう》です、アッハハハハ。わたくしも大分小さな樹の枝で擦剥《すりむ》き疵《きず》をこしらえましたよ。アッハハハハ。
ト蔵海め、さすがに仏の飯で三度の埒《らち》を明けて来た奴だけに大禅師《だいぜんじ》らしいことをいったが、晩成先生はただもうビクビクワナワナで、批評の余地などは、よほど喉元《のどもと》過ぎて怖《こわ》いことが糞《くそ》になった時分まではあり得《え》はしなかった。
 路は一[#(ト)]しきり大《おおい》に急になりかつまた窄《せま》くなったので、胸を突くような感じがして、晩成先生は遂に左の手こそは傘をつかまえているが、右の手は痛むのも汚れるのも厭《いと》ってなどいられないから、一歩一歩に地面を探るようにして、まるで四足獣が三|足《ぞく》で歩くような体《てい》になって歩いた。随分長い時間を歩いたような気がしたが、苦労には時間を長く感じるものだから実際はさほどでもなかったろう。しかし一|町余《ちょうよ》は上《のぼ》ったに違いない。漸《ようや》くだらだら坂《ざか》になって、上りきったナと思うと、
 サア来ました。
ト蔵海がいった。そして途端に持っていた蝙蝠傘《こうもり》の一端《いったん》を放した。で、大噐氏は全く不知案内《ふちあんない》の暗中の孤立者になったか
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