と思われる。温かでは無くて、冷たいものであったとすれば、あの通りで丁度宜いであろう。氏郷が秀吉に心《こころ》窃《ひそ》かに冷やかに思われたとすれば、それは氏郷が秀吉の主人信長の婿で有ったことと、最初は小身であったが次第次第に武功を積んで、人品骨柄の中々立派であることが世に認めらるるに至ったためとで、他にこれということも見当らぬ。然し小田原征伐出陣の時に、氏郷が画師に命じて、白綾《しらあや》の小袖《こそで》に、左の手には扇、右の手には楊枝《ようじ》を持ったる有りの儘の姿を写させ、打死せば忘れ形見にも成るべし、と云い、奉行町野左近将監|繁仍《しげより》の妻で、もと鶴千代丸の時の乳母だった者に、此絵は誰に似たるぞ、と笑って示したので、左近が妻は、忌々《いまいま》しきことをせさせ玉う君かな、御年も若うおわしながら何の為にかかる事を、と泣いたと云う談《はなし》が伝わっている。戦の度毎に戦死と覚悟してかかるのが覚悟有る武士というものでは有るが、一寸おかしい、氏郷の心中奥深きところに何か有ったのではないかと思われぬでもないが、又|然程《さほど》に深く解釈せずとも済む。秀吉が姿絵を氏郷の造らせたということを聞いて感涙を墜《おと》したというのも、何だか一寸考えどころの有るようだが、全くの感涙とも思われる。すべてに於て想察の纏《まと》まるような材料は無い。秀吉が憎んだ佐々成政の三蓋笠《さんがいがさ》の馬幟《うまじるし》を氏郷が請うて、熊の棒という棒鞘《ぼうざや》に熊の皮を巻付けたものに替えたのは、熊の棒が見だてが無かったからと、且は驍勇《ぎょうゆう》の名を轟《とどろ》かした成政の用いたものを誰も憚《はばか》って用いなかったからとで有ったろうが、秀吉に取って面白い感じを与えたか何様《どう》か、有らずもがなの事だった。然し勿論そんな些事《さじ》を歯牙《しが》に掛ける秀吉では無い。秀吉が氏郷を遇するに別に何も有った訳では無い、ただ特《こと》に之を愛するというまでに至って居らずに聊《いささ》か冷やかであったというまでである。細川忠興が会津の鎮守を辞退したというのは信じ難い談だが、忠興が別に咎立《とがめだて》もされず此の難い役を辞したとすれば、忠興は中々手際の好い利口者である。
 氏郷が政宗の後の会津を引受けさせられたと同じ様に、織田|信雄《のぶかつ》は小田原陣の済んだ時に秀吉から徳川家康の後の駿遠参《すんえんさん》に封ぜられた。ところが信雄は此の国替を悦《よろこ》ばなくて、強いて秀吉の意に忤《さから》った。そこで秀吉は腹を立てて、貴様は元来国を治め民を牧《やしな》う器量が有る訳では無いが、故信長公の後なればこそ封地を贈ったのに、我儘《わがまま》に任せて吾《わ》が言を用いぬとは己を知らぬにも程がある、というので那賀《なか》二万石にして終《しま》った。信雄は元来立派な父の子でありながら器量が乏しく、自分の為に秀吉家康の小牧山の合戦をも起させるに至ったに関わらず、秀吉に致されて直《じき》に和睦《わぼく》して終ったり、又父の本能寺の変を鬼頭内蔵介から聞かされても嘘だろう位に聞いた程のナマヌル魂で、彼の無学文盲の佐々成政にさえ見限られたくらいの者ゆえ、秀吉に逐《お》われたのも不思議は無い。前田利家は余り人の悪口を云うような人では無いが、其の世上の「うつけ者」の二人として挙げた中の一人は、確《しか》と名は指して無いが信雄ではないかと思われる。氏郷の父賢秀が光秀に従わぬ為に攻められかかった時援兵を乞うたのにも、怯儒《きょうだ》で遷延して、人質を取ってから援兵を出すことにし、それも捗々《はかばか》しいことを得せず、相応の兵力を有しながら父を殺した光秀征伐の戦の間にも合わなかった腑甲斐無しであるから、高位高官名門大封の身でありながら那賀へ逐われ、次《つい》で出羽の秋田へ蟄《ちっ》せしめられたも仕方は無い。然し秀吉が之を清須百万石から那賀へ貶《へん》したのも余り酷《ひど》かった。馬鹿でも不覚者でも氏郷に取っては縁の兄弟である、信雄信孝合戦の時は氏郷は柴田に馴染が深かったが、信孝方に付かず信雄方に附いたのである。其信雄が是《かく》の如くにされたのは氏郷に取って好い心持はせず、秀吉の心の冷たさを感じたことであろう。然し天下の仕置は人情の温い冷たいなどを云っては居られぬのである、道理の当不当で為すべきであるから致方は無い。致方は無いけれども些《ちと》酷過ぎた。秀吉の此の酷いところ冷たいところを味わせられきっていて、そして天下の仕置は何様すべきものだということを会《え》しきっている氏郷である。木村父子の厄介な事件が起ったとて、予《かね》ても想い得切って居ることであり、又如何にすべきかも考え得抜いて居ることである、今更何の遅疑すべきでもない。
 木村父子は佐沼から氏郷へ援を請うた。遠くても、寒気が烈《はげ》しくても棄てては置けぬ。十一月五日には氏郷はもう会津を立っている。新領地の事であるから、留守にも十分に心を配らねばならぬ、木村父子の覆轍《ふくてつ》を踏んではならぬ。会津城の留守居には蒲生左文|郷可《さとよし》、小倉豊前守、上坂兵庫助、関入道万鉄、いずれも頼みきったる者共だ。それから関東口白河城には関右兵衛尉、須賀川城には田丸中務少輔を籠《こ》めて置くことにした。政宗の方の片倉|備中守《びっちゅうのかみ》が三春の城に居るから、油断のならぬ奴への押えである。中山道口の南山城には小倉作左衛門、越後口の津川城には北川平左衛門尉、奥街道口の塩川城には蒲生喜内、それぞれ相当の人物を置いて、扨《さて》自分は一番|先手《さきて》に蒲生源左衛門、蒲生忠右衛門、二番手に蒲生四郎兵衛、町野左近将監、三番に五手組《いつてぐみ》、梅原弥左衛門、森|民部丞《みんぶのじょう》、門屋助右衛門、寺村半左衛門、新国上総介《にっくにかずさのすけ》、四番には六手組、細野九郎右衛門、玉井数馬助、岩田市右衛門、神田清右衛門、外池《とのいけ》孫左衛門、河井公左衛門、五番には七手与《ななてぐみ》、蒲生将監、蒲生|主計助《かずえのすけ》、蒲生忠兵衛、高木助六、中村仁右衛門、外池甚左衛門、町野|主水佑《もんどのすけ》、六番には寄合与《よりあいぐみ》、佐久間久右衛門、同じく源六、上山弥七郎、水野三左衛門、七番には弓鉄砲頭、鳥井四郎左衛門、上坂源之丞、布施次郎右衛門、建部《たけべ》令史、永原孫右衛門、松田金七、坂崎五左衛門、速水勝左衛門、八番には手廻《てまわり》小姓与《こしょうぐみ》、九番には馬廻、十番には後備《あとそなえ》関勝蔵、都合其勢六千余騎、人数多しというのでは無いが、本国江州以来、伊勢松坂以来の一族縁類、切っても切れぬ同姓や眷族《けんぞく》、多年恩顧の頼み頼まれた武士、又は新規召抱ではあるが、家来は主の義勇を慕い知遇を感じ、主は家来の器量骨柄を愛《め》でいつくしめる者共、皆各々言わねど奥州出羽初めての合戦に、我等が刃金の味、胆魂《きもだましい》の程を地侍共に見せ付けて呉れんという意気を含んだ者を従えて真黒になって押出した。其日は北方奥地の寒威早く催して、会津山|颪《おろし》肌に凄《すさま》じく、白雪紛々と降りかかったが、人の用い憚《はば》かりし荒気大将佐々成政の菅笠《すげがさ》三蓋《さんがい》の馬幟《うまじるし》を立て、是は近き頃下野の住人、一家|惣領《そうりょう》の末であった小山小四郎が田原藤太相伝のを奉りしより其れに改めた三[#(ツ)]頭|左靹絵《ひだりどもえ》の紋の旗を吹靡《ふきなび》かせ、凜々《りんりん》たる意気、堂々たる威風、膚《はだえ》撓《たゆ》まず、目まじろがず、佐沼の城を心当に進み行く、と修羅場読みが一[#(ト)]汗かかねばならぬ場合になった。が、実際は額に汗をかくどころでは無い、鶏肌立つくらい寒かったので、諸士軍卒も聊《いささ》か怯《ひる》んだろう。そこを流石《さすが》は忠三郎氏郷だ、戦の門出に全軍の気が萎《な》えているようでは宜しく無いから、諸手《もろて》の士卒を緊張させて其の意気を振い立たせる為に、自分は直膚《すぐはだ》に鎧《よろい》ばかりを着したということが伝えられている。鎧を着るには、鎧下と云って、錦《にしき》や練絹などで出来ているものを被《き》る。袴《はかま》短く、裾や袖《そで》は括緒《くくりお》があって之を括る。身分の低い者のは錦などでは無いが、先ずは直垂《ひたたれ》であるから、鎧直垂とも云う。漢語の所謂《いわゆる》戦袍《せんぽう》で、斎藤実盛の涙ぐましい談を遺したのも其の鎧直垂に就いてである。氏郷が風雪出陣の日に直膚に鎧を着たというのも、ふざけ者が土用干の時の戯れのように犢鼻褌《ふんどし》一ツで大鎧を着たというのでは無く、鎧直垂を着けないだけであったろうが、それにしても寒いのには相違無かったろう。しかし斯様《こう》いう大将で有って見れば、士卒も萎《し》けかえって顫《ふる》えて居るわけには行かぬ、力肱《ちからひじ》を張り力足を踏んだことだろう。斯様いう長官が居無くて太平の世の官員は石炭ばかり気にして焚《く》べて仕合せな事である。
 冗談は扨置《さてお》き、新らしい領主の氏郷が出陣すると、これを見て会津の町人百姓は氏郷を気の毒がって涙をこぼしたという。それは噂によれば木村伊勢守父子も根城を奪われた位では、奥州侍は皆敵になったのであるし、御領主の御領内も在来の者共の蜂起《ほうき》は思われる、剛気の大将ではあらせられても御味方は少く、土地の者は多い、敵《かな》わせられることでは無かろう、痛わしい御事である、定めし畢竟《ひっきょう》は如何なる処にてか果てさせたまうであろう、と云うのであった、奥州に生立って奥州武士よりほかのものを見ぬものは、一ツは国自慢で、奥州武士という者は日本一のように強い者に思って居たせいもあろうが、其の半面には文雅で学問が有って民を撫する道を知っていたろう氏郷の施為《しい》が、木村父子や佐々成政などと違って武威の恐ろしさのみを以て民に臨まなかったため、僅々の日数であったに関らず、今度の領主は何様《どう》いう人で有ろうと怖畏《ふい》憂虞《ゆうぐ》の眼を張って窺《うかが》って居た人民に、安堵《あんど》と随《したが》って親愛の念を懐《いだ》かせた故であったろう。
 氏郷の出陣には民百姓ばかりで無い、町野左近将監も聊《いささ》か危ぶんで、願わくは今しばらく土地にも慣れ、四囲の事情も明らかになってから、戦途に上って欲しいと思った。会津から佐沼への路は、第一日程は大野原を経て日橋川を渡り、猪苗代湖を右手《めて》に見て、其湖の北方なる猪苗代城に止《とど》まるのが、急いでも急がいでも行軍上至当の頃合であった。で、氏郷の軍は猪苗代城に宿営した。猪苗代城の奉行は、かつて松坂城の奉行であった町野左近将監で、これは氏郷の乳母を妻にしていて、主人とは特《こと》に親しみ深い者であった。そこで老人の危険を忌む思慮も加わってであろうが、氏郷を吾《わ》が館《やかた》に入れまいらせてから、密《ひそか》に諫言《かんげん》を上《たてまつ》って、今此の寒天に此処より遥に北の奥なるあたりに発向したまうとも、人馬も労《つか》れて働きも思うようにはなるまじく、不案内の山、川、森、沼、御勝利を得たまうにしても中々容易なるまじく思われまする、ここは一応こらえたまいて、来年の春を以て御出なされては如何でござる、と頻《しき》りに止めたのである。町野繁仍の言も道理では有るが、それはもう魂の火炎が衰えている年寄武者の意見である。氏郷此時は三十五歳で有ったから、氏郷の乳母は少くとも五十以上、其夫の繁仍は六十近くでもあったろう。老人と老馬は安全を得るということに就ては賢いものであるから、大抵の場合に於て老人には従い、老馬には騎《の》るのが危険は少い。けれども其は無事の日の事である。戦機の駈引には安全第一は寧《むし》ろ避く可きであり、時少く路長き折は老馬は取るべからずである。今起った一揆《いっき》は少しでも早く対治して終《しま》って其の根を張り枝を茂らせぬ間に芟除《かりのぞ》き抜棄てるのを機宜《きぎ》の処置とする。且又信雄が明智
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