もこれを聞いて解った。成程我が主人は信長公の婿だ、今|遽《にわか》に関白に楯突《たてつ》こうようはあるまいが、云わば秀吉は家来筋だ、秀吉に何事か有らば吾《わ》が主人が手を天下に掛けようとしたとて不思議は無い、男たる者の当り前だ、と悟るに付けて斯様な草深い田舎に身柄と云い器量と云い天晴《あっぱれ》立派な主人が埋められかかったのを思うと、凄然《せいぜん》惻然《そくぜん》として家勝も悲壮の感に打たれない訳には行かなかったろう。主人の感慨、家臣の感慨、粛として秋の気は坐前坐後に満ちたが、月は何知らず冷やかに照って居た。
 氏郷が会津四十二万石を受けて悦《よろこ》ばずに落涙したというのは何という味のある話だろう。鼻糞《はなくそ》ほどのボーナスを貰ってカフェーへ駈込んだり、高等官になったとて嚊殿《かかあどの》に誇るような極楽蜻蛉《ごくらくとんぼ》、菜畠蝶々《なばたけちょうちょう》に比べては、罪が深い、無邪気で無いには違い無いが、氏郷の感慨の涙も流石《さすが》に氏郷の涙だと云いたい。それだけに生れついて居るものは生れついているだけの情懐が有る。韓信が絳灌樊※[#「口+會」、第3水準1−15−25]《こうかんはんかい》の輩と伍《ご》を為すを羞《は》じたのは韓信に取っては何様することも出来ないことなのだ。樊※[#「口+會」、第3水準1−15−25]だって立派な将軍だが、「生きて乃《すなは》ち※[#「口+會」、第3水準1−15−25]等と伍を為す」と仕方が無しの苦笑をした韓信の笑には涙が催される。氏郷の書院柱に靠《よ》りかかって月に泣いた此の涙には片頬《かたほ》の笑《えみ》が催されるではないか。流石に好い男ぶりだ。蜻蛉蝶々やきりぎりすの手合の、免職されたア、失恋したアなどという眼から出る酸ッぱい青臭い涙じゃ無い。忠三郎の米の飯は四十二万石、後には百万石も有り、女房は信長の女《むすめ》で好い器量で、氏郷死後に秀吉に挑まれたが位牌《いはい》に操を立てて尼になって終《しま》った程、忠三郎さんを大事にして居たのだった。
 天下の見懲らしに北条を遣りつけてから、其の勢の刷毛《はけ》ついでに武威を奥州に示して一[#(ト)]撫でに撫でた上に氏郷という強い者を押えにして、秀吉は京へ帰った。奥州出羽は裏面ではモヤモヤムクムクして居ても先ず治まった。ところがおさまらぬのは伊達政宗だ。折角|啣《くわ》えた大きな鴨をこれから※[#「口+敢」、第3水準1−15−19]《く》おうとして涎《よだれ》まで出したところを取上げられて終った犬のような位置に立たせられたのである。関白はじめ諸大将等が帰って終って見ると何とかしたい。何とかする段には仕方はいくらでもある。仕方が無ければ手も引込めて居るのだが、仕方が有るから手が出したくなる。然し氏郷という重石《おもし》は可なり重そうである。氏郷は白河をば関|右兵衛尉《うひょうえのじょう》、須賀川をば田丸|中務少輔《なかつかさしょうゆう》、阿子《あこ》が嶋《しま》をば蒲生源左衛門、大槻を蒲生忠右衛門、猪苗代を蒲生四郎兵衛、南山を小倉孫作、伊南《いなみ》を蒲生左文、塩川を蒲生喜内、津川を北川平左衛門に与えて、武威も強く政治も届く様子だから、政宗も迂闊《うかつ》に手を掛ける訳にはゆかぬ。斯様なると暴風雨は弱い塀に崇《たた》る道理で、魔の手は蒲生へ向うよりは葛西大崎の新領主となった木村伊勢守父子の方へ向って伸ばされ出した。木村父子は武辺も然程《さほど》では無く、小勢でもある。伊勢父子がドジを踏んでマゴマゴすれば蒲生は之を捨てて置く訳にはゆかぬ、伊勢父子の居る地方と蒲生の会津とは其間遥に距《へだた》って居るけれども必ず見継ぐだろう。蒲生が会津を離れて動き出せば長途の出陣、不知案内の土地、臨機応変の仕方は何程も有ろう、木村蒲生に味噌を附けさせれば好運は自然に此方へ転げ込んで来る理合だ、という様な料簡は自も存したことであろう。政宗方の史伝に何も此様《こう》いう計画をしたという事が遺って居るのでは無いが、前後の事情を考えると、邪推かは知らぬが斯様《こう》思える節が有るのである。又木村父子は実際小身で無能で有ったから、今度葛西大崎を賜わったに就ては人手が足らぬから急に浪人共を召抱えたに違い無く、浪人共を召抱えても法度《はっと》厳正に之を取締れば差支無いが、元来地盤が固く無い処へ安普請をしたように、規模が立たんで家風家法が確立して居ないところへ、世に余され者の浪人共を無鑑識に抱え込んだのでは、いずれおとなしく無いところが有るから浪人するにも至った者共が、ナニ此の奥州の田舎者めと侮って不道理を働くことも有勝なことで、然様《そう》なれば然無《さな》きだに他国者の天降《あまくだ》り武士を憎んで居る地侍の怒り出すのも亦有り内の情状であるから、そこで一揆《いっき》も起るべき可能性が多かったのである。戦乱の世というものは何時も其下と其上と和睦《わぼく》し難いような事情が起ると、第三者が窃《ひそ》かに其下に助力して其主権者を逐落《おいおと》し、そして其土地の主人となって終《しま》うのである。或は特《こと》に利を啗《くら》わせて其下をして其上に負《そむ》かせて我に意《こころ》を寄せしめ置いて、そして表面は他の口実を以て襲って之を取るのであるし、下たるものも亦|是《かく》の如くにして自己の地位や所得を盛上げて行くのである。窃かに心を寄せるのが「内通」であり、利を啗わせて事を発《おこ》させるのが「嘱賂《そくろ》を飼う」のであり、まだ表面には何の事も無くても他領他国へ対して計略を廻らすのが「陰謀」である。たとえば伊達政宗が会津を取った時、一旦は降参した横田氏勝の如きは、降参して見ると所領を余り削減されたので政宗を恨んだ。そこで政宗から会津を取返したくて使を石田三成へ遣わしたりなんぞしている。然様いう理屈だから、秀吉の方へ政宗が小田原へ出渋った腹の底でも何でも知れて終うのである。是の如きことは甲にも乙にも上《かみ》にも下《しも》にも互に有ることで、戦乱の世の月並で稀《めず》らしい事では無い。小田原は松田尾張、大道寺駿河等の逆心から関白方に亡ぼされたのであり、会津は蘆名の四天王と云われた平田松本佐瀬富田等が心変りしたから政宗に取られたのである。政宗は前に云った通り、まだ秀吉に帰服せぬ前に、木村父子が今度拝領した大崎を取ろうと思って、大崎の臣下たる湯山隆信を吾《われ》に内通させて氏家吉継と与《とも》に大崎を図らせて居たのである。然様いう訳なのであるから、大崎の一揆の中に其の湯山隆信等が居たか何様《どう》だかは分らぬが、少くとも大崎領に政宗の電話が開通して居たことは疑無い。サア木村父子が新来無恩の天降り武士で多少の秕政《ひせい》が有ったのだろうから、土着の武士達が一揆を起すに至って、其一揆は中々手広く又|手強《てごわ》かった。木村伊勢守が成合平左衛門を入れて置いた佐沼城を一揆は取囲んだ。佐沼は仙台よりはまだずっと奥で、今の青森線の新田《にった》駅或はせみね駅あたりから東へ入ったところであり、海岸へ出て気仙《けせん》の方へ行く路にあたる。伊勢守父子は成合を救わずには居られないから、伊勢守吉清は葛西の豊間城、即ち今の登米《とめ》郡の登米《とよま》という北上川沿岸の地から出張し、子の弥一右衛門清久は大崎の古河城、今の小牛田《こごた》駅より西北の地から出張して、佐沼の城の後詰を議したところ、一揆の方は予《あらかじ》め作戦計画を立てて居たものと見えて、不在になった豊間と古河の両城をソレ乗取れというので忽《たちま》ち攻陥《せめおと》して終った。佐沼は豊間よりは西北、古河よりは東に当るが、豊間と古河との距離は直接にすれば然のみ距《へだた》って居らぬとは云え、然程に近い訳でも無いのに、是《かく》の如く手際|能《よ》く木村父子が樹に離れた猿か水を失った鮒のように本拠を奪われたところを見ると、一揆の方には十分の準備が有り統一が保てて居て、思う壺へ陥れたものと見える。ナマヌル魂の木村父子は旅《りょ》の卦《け》の文に所謂《いわゆる》鳥其巣を焚《や》かれた旅烏、バカアバカアと自ら鳴くよりほか無くて、何共《なんとも》せん方ないから、自分が援助するつもりで来た成合平左衛門に却《かえっ》て援《たす》けられる形となって、佐沼の城へ父子共|立籠《たてこも》ることになった。
 西を向いても東を向いても親類縁者が有るでも無い新領地での苦境に陥っては、二人は予《かね》ての秀吉の言葉に依って、会津の蒲生氏郷とは随分の遠距離だが其の来援を乞うよりほか無かった。一体余り器量も無い小身の木村父子を急に引立てて、葛西、大崎、胆沢《いさわ》を与えたのは些《ちと》過分であった。何様も秀吉の料簡《りょうけん》が分らない。木村父子の材能が見抜けぬ秀吉でも無く、新領主と地侍とが何様《どん》なイキサツを生じ易いものだということを合点せぬ秀吉でも無い。一旦自分に対して深刻の敵意を挟《さしはさ》んだ狼戻《こんれい》豪黠《ごうかつ》の佐々成政を熊本に封じたのは、成政が無異で有り得れば九州の土豪等に対して成政は我が藩屏《はんぺい》となるので有り、又成政がドジを踏めば成政を自滅させて終うに足りるというので、竟《つい》に成政は其の馬鹿暴《ばかあら》い性格の欠陥により一揆の蜂起《ほうき》を致して大ドジを演じたから、立花、黒田等諸将に命じて一揆をも討滅すれば成政をも罪に問うて終った。木村父子は何も越中立山から日本アルプスを越えて徳川家康と秀吉を挟撃する相談をした内蔵介《くらのすけ》成政ほどの鼬花火《いたちはなび》のような物狂わしい火炎魂を有《も》った男でも無いし、それを飛離れた奥地に置いた訳は一寸解しかねる。事によると是は羊を以て狼を誘うの謀《はかりごと》で、斯《こ》の様な弱武者の木村父子を活餌《いきえ》にして隣の政宗を誘い、政宗が食いついたらば此畜生《こんちくしょう》めと殺して終おうし、又何処までも殊勝気に狼が法衣《ころも》を着とおすならば物のわかる狼だから其儘《そのまま》にして置いて宜い、というので、何の事は無い木村父子は狼の窟《いわや》の傍《そば》に遊ばせて置かれる羊の役目を云い付かったのかも知れない。筋書が若《も》し然様ならば木村父子は余り好い役では無いのだった。
 又氏郷に対して木村父子を子とも家来とも思えと云い、木村父子に対して氏郷を親とも主とも思えと秀吉の呉々《くれぐれ》も訓諭したのは、善意に解すれば氏郷を羊の番人にしたのに過ぎないが、人を悪く考えれば、羊が狼に食い殺された場合は番人には切腹させ、番人と狼と格闘して狼が死ねば珍重珍重、番人が死んだ場合には大概|草臥《くたび》れた狼を撲《ぶ》ちのめすだけの事、狼と番人とが四ツに組んで捻合《ねじあ》って居たら危気無しに背面から狼を胴斬《どうぎ》りにして終う分の事、という四本の鬮《くじ》の何《ど》れが出ても差支無しという涼しい料簡で、それで木村父子と氏郷とを鎖で縛って膠《にかわ》で貼《つ》けたようにしたのかも知れない。して見れば秀吉は宜いけれど、氏郷は巨額の年俸を与えられたとは云え極々短期の間に其年俸を受取れるか何様か分らぬ危険に遭遇すべき地に置かれたのだ。番人に対しての関白の愛は厚いか薄いか、マア薄いらしい。会津拝領は八月中旬の事で、もう其歳の十月の二十三日には羊の木村父子は安穏に草を※[#「口+敢」、第3水準1−15−19]《は》んでは居られ無くなって、跳ねたり鳴いたり大苦みを仕始めたのであった。
 一体氏郷は父の賢秀の義に固いところを受けたのでもあろうか、利を見て義を忘れるようなことは毫《ごう》も敢てして居らぬ、此の時代に於ては律義な人である。又佐々成政のような偏倚《へんき》性格を有った男でも無かった。だから成政を忌むように秀吉から忌まれるべきでも無かった。が、氏郷を会津に置いて葛西大崎の木村父子と結び付けたのは、氏郷に対して若し温かい情が有ったとすれば、秀吉の仕方は聊《いささ》か無理だった。葛西大崎と会津との距離は余り懸隔して居る、其間に今一人ぐらい誰かを置いて連絡を取らせても宜い筈
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