という者が、御許諾なされた上は致方なけれども御当家重代の物ゆえに、ただ模品《うつし》をこしらえて御遣わしなされまし、と云ったほどにも拘らず、天下に一ツの鐙故他に知る者は有るまいけれど、模品を遣わすなどとは吾《わ》が心が耻《はず》かしい、と云って真物を与えた。そこで忠興も後に吾が所望したことが不覚《そぞろ》であったことを悟って、返そうとしたところが、氏郷は、一旦差上げたものなれば御遠慮には及ばぬ、と受取らなかった。忠興も好い人だから、氏郷の死後に其子秀行へとうとう返戻したという談《はなし》がある。竹の油筒を掘り出して賞美するかと思えば、ケチでは無い人だ、家重代の者をも惜気無く親友の所望には任せる。中々面白い心の行きかたを有《も》った人だった。
 さて話は前へ戻る。是《かく》の如き忠三郎氏郷は秀吉に見立てられて会津の主人となった。当時氏郷は何万石取って居たか分明でないが、松坂に居た天正十六年は十六万石|若《もし》くは十八万石であったというから、其後は大戦も無く大功も立つ訳が無いから、大抵十八万石か少し其《それ》以上ぐらいで有ったろう。然るに小田原陣の手柄が有って後に会津に籠《こ》めらるるに
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