信をして夜討を掛けさせた時と、七月二日に氏房が復《また》春日|左衛門尉《さえもんのじょう》をして夜討を掛けさせた時とである。五月三日の夜のは小田原勢がまだ勢の有った時なので中々猛烈であったが、蒲生勢の奮戦によって勿論|逐払《おいはら》った。然し其時の闘は如何にも突嗟《とっさ》に急激に敵が斫入《きりい》ったので、氏郷自身まで鎗《やり》を取って戦うに至ったが、事済んで営に帰ってから身内をばあらためて見ると、鎧《よろい》の胸板《むないた》掛算《けさん》に太刀疵《たちきず》鎗疵《やりきず》が四ヶ処、例の銀の鯰《なまず》の兜《かぶと》に矢の痕《あと》が二ツ、鎗の柄には刀痕《とうこん》が五ヶ処あったという。以て氏郷が危険を物の数ともせずして、自分の身を自分が置くべきとする処に置いた以上は一歩も半歩も退《ひ》かぬ剛勇の人であることが窺《うかが》い知られる。つまり氏郷は他を律することも厳峻《げんしゅん》な代りに自ら律することも厳峻な人だったのである。
 是《かく》の如き人は主人としては畏《おそ》ろしくもあれば頼もしくもある人で、敵としては所謂《いわゆる》手強《てごわ》い敵、味方としては堅城鉄壁のような
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