って政宗に負いたのである。
そこで其十九日の夜深《よふか》に須田伯耆は他の一人と共に逃げ込んで来て、蒲生源左衛門を頼んだ。ただ来たところで容れられる訳は無いから、飛んでもない手土産を持って来た。それは政宗と一揆方との通謀の証拠になる数通の文書であった。逃げて来た二人の名は蒲生方の記には山戸田八兵衛、牛越宗兵衛とある。須田は政宗が米沢を去った後に氏郷の方へ来て、政宗の秘を訐《あば》いた者となって居る。
蒲生源左衛門は須田等を糺《きゅう》した。二人は証拠文書を攘《と》って来たのだから、それに合せて逐一に述立てた。大崎と伊達との関係、大崎義隆の家は最上義光を宗家としていること、最上家は政宗の母の家であること、母と政宗とは不和の事、政宗が大崎を図った事、そんな事をも語ったろうが、それよりは先ず差当って、一揆を勧めたこと、黒川に於ての企の事、中新田にて虚病の事、名生の城へ氏郷を釣寄せる事、四城と計《はかりごと》を合せて氏郷を殺し、一揆の手に打死を遂げたることにせんとしたる事、政宗方に名生の城の落武者来りて、余りに厳しく攻められて相図|合期《ごうご》せざりしと語れる事等を訐き立てた。そして其上
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