は有ったらしく、又世俗の所謂《いわゆる》鬼役即ち毒味役なる者が各家に存在した程に毒飼の事は繁かったものである。されば政宗が氏郷に毒を飼ったことは無かったとしても、蒲生方では毒を飼ったと思っても強《あなが》ち無理では無く、氏郷が西大寺を服したとても過慮でも無い。又ずっと後の寛永初年(五年|歟《か》)三月十二日、徳川二代将軍秀忠が政宗の藩邸に臨んだ時、政宗が自ら饗膳《きょうぜん》を呈した。其時将軍の扈従《こじゅう》の臣の内藤|外記《げき》が支え立てして、御主人《おんあるじ》役に一応御試み候え、と云った。すると政宗は大《おおい》に怒って、それがし既にかく老いて、今さら何で天下を心掛きょうず、天下に心を掛けしは二十余年もの昔、其時にだに人に毒を飼う如ききたなき所存は有《も》たず、と云い放った。それで秀忠が笑って外記の為に挨拶が有って其儘《そのまま》に済んだ、という事がある。政宗の答は胸が透《す》くように立派で、外記は甚だ不面目であったが、外記だとて一手《ひとて》さきが見えるほどの男ならば政宗が此の位の返辞をするのは分らぬでもあるまいに、何で斯様《かよう》なことを云ったろう。それは全く将軍を思う
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