手を出して、毒を仕込み置いたる茶を立てて氏郷に飲ませた、と云われている。毒薬には劇毒で飲むと直《じき》に死ぬのも有ろうし、程経て利くのも有ろうが、かかる場合に飲んで直に血反吐《ちへど》を出すような毒を飼おうようは無いから、仕込んだなら緩毒、少くとも二三日後になって其効をあらわす毒を仕込んだであろう。氏郷も怪しいと思わぬことは無かった。然し茶に招かれて席に参した以上は亭主が自ら点じて薦《すす》める茶を飲まぬという其様《そん》な大きな無礼無作法は有るものでないから、一団の和気を面に湛《たた》えて怡然《いぜん》として之を受け、茶味以外の味を細心に味いながら、然も御服合《おふくあい》結構の挨拶の常套《じょうとう》の讃辞まで呈して飲んで終った。そして茶事が終ったから謝意を叮嚀《ていねい》に致して、其席を辞した。氏郷の家来達も随《したが》って去った。客も主人も今日これから戦地へ赴かねばならぬのである。
 氏郷は外へ出た。政宗方の眼の外へ出たところで、蒲生源左衛門以下は主人の顔を見る、氏郷も家来達の面を見たことであろう。主従は互に見交わす眼と眼に思い入れ宜しくあって、ム、ハハ、ハハ、ハハハと芝居ならば政宗方の計画の無功に帰したを笑うところであった。けれど細心の町野左近将監のような者は、殿、政宗が進じたる茶、別儀もなく御味わいこれありしか、まった飲ませられずに御[#(ン)]済ましありしか、飲ませられしか、如何に、如何に、と口々に問わぬことは無かったろう。そして皆々の面は曇ったことだろう。氏郷は、ハハハ、飲まねば卑怯《ひきょう》、余瀝《よれき》も余さず飲んだわやい、と答える。家来達はギェーッと今更ながら驚き危ぶむ。誰《た》そあれ、水を持て、と氏郷が命ずる。小ばしこい者が急に駛《はし》って馬柄杓《ばびしゃく》に水を汲んで来る。其間に氏郷は印籠《いんろう》から「西大寺」(宝心丹をいう)を取出して、其水で服用し、彼に計謀《はかりごと》あれば我にも防備《そなえ》あり、案ずるな、者共、ハハハハハハ、と大きく笑って後を向くと、西大寺の功験早く忽《たちま》ちにカッと飲んだ茶を吐いて終った。
 以上は蒲生方の記するところに拠って述べたので、伊達方には勿論毒を飼うたなどという記事の有ろうようは無い。毒を用いて即座に又は陰密に人を除いて終うことは恐ろしい世には何様しても起り、且つ行われることであるから、かかる事も有り得べきではある。毒がいは毒飼で、毒害は却《かえ》ってアテ字である、其毒飼という言葉が時代の※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]《にお》いを表現している通り、此時代には毒飼は頻々として行われた。けれども毒飼は最もケチビンタな、蝨《しらみ》ッたかりの、クスブリ魂の、きたない奸人《かんじん》小人|妬婦《とふ》悪婦の為すことで、人間の考え出したことの中で最も醜悪卑劣の事である。自死に毒を用いるのは耻辱《ちじょく》を受けざる為で、クレオパトラの場合などはまだしも恕《じょ》すべきだが、自分の利益の為に他を犠牲にして毒を飼う如きは何という卑しいことだろう。それでも当時は随分行われたことであるから、これに対する用心も随《したが》って存したことで、治世になっても身分のある武士が印籠《いんろう》の根付にウニコールを用いたり、緒締《おじめ》に珊瑚珠《さんごじゅ》を用いた如きも、珊瑚は毒に触るれば割れて警告を与え、ウニコールは解毒の神効が有るとされた信仰に本づく名残りであった。宝心丹は西大寺から出た除毒催吐の効あるものとして、其頃用いられたものと見える。扨《さて》此の毒飼の事が実に存したこととすれば、氏郷は宜いが政宗は甚《いた》く器量が下がる。但し果して事実であったか何様《どう》かは疑わしい。政宗にも氏郷にもゆかりは無いが、政宗の為に虚談想像談で有って欲しい。政宗こそ却《かえ》って今歳《ことし》天正の十八年四月の六日に米沢城に於て危うく毒を飼わりょうとしたのである。それは政宗が私に会津を取り且つ小田原参向遅怠の為に罪を得んとするの事情が明らかであったところから、最上《もがみ》義光に誑《たぶら》かされた政宗の目上が、政宗を亡くして政宗の弟の季氏《すえうじ》を立てたら伊達家が安泰で有ろうという訳で毒飼の手段を廻らした。幸にそれは劇毒で、政宗の毒味番が毒に中《あた》って苦悶《くもん》即死したから事|露《あら》われて、政宗は無事であったが、其為に政宗は手ずから小次郎季氏を斬《き》り、小次郎の傅《もり》の小原縫殿助《おばらぬいのすけ》を誅《ちゅう》し、同じく誅されそこなった傅の粟野藤八郎は逃げ、目上の人即ち政宗の母は其実家たる最上義光の山形へ出奔《いではし》ったという事がある。小次郎を斬ったのは鈴木七右衛門だったとも云う。これも全部は信じかねるが、何にせよ毒飼騒ぎのあったこと
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