惑わぬことは無かったろうが、そこは人の魂の沸《たぎ》り立って居る代である、左馬允は思い切って大力を出してとうとう氏郷を捻倒した。そこで、ヤア左馬允、汝は強い、と主人に笑って貰えれば上首尾なのだが、然様《そう》は行かなかった。忠三郎氏郷ウンと緊張した顔つきになって、無念である、サアもう一度来い、と力足を踏んで眼ざし鋭く再闘を挑んだ。観て居る者は気の毒で堪《たま》らない、オヤオヤ左馬允め、負ければ無事だろうが、勝った段にはもともと勘気を蒙《こうむ》った奴である、手討になるか何か知れた者では無いと危ぶんだ。左馬允も斯様《こう》なっては是非が無い、ここで負けては仮令《たとい》過まって負けたにしても軽薄者表裏者になると思ったから、油断なく一生懸命に捻合った。双方死力を出して争った末、とうとう左馬允は氏郷を遣付けた。其時はじめて氏郷は莞爾《かんじ》と笑って、好い奴だ、汝は此の乃公《おれ》に能《よ》う勝ったぞ、と褒美して、其の翌日知行米加増を出したという。此|談《はなし》の最初一度負けたところで、褒詞を左馬允に与えて済ます位のところなら、少し腹の大きい者には出来ることだが、二度目の取ッ組合をしたところが一寸面白い。氏郷の肚《はら》は闊《ひろ》いばかりでなく、奥深いところがあった。
 斯様いう性格で、手厳しくもあり、打開けたところもあり、そして其能は勇武もあり、機略もあった人だが、其上に氏郷は文雅を喜び、趣味の発達した人であった。矢叫《やたけ》び鬨《とき》の声《こえ》の世の中でも放火殺人専門の野蛮な者では無かった。机に※[#「馮/几」、第4水準2−3−20]《よ》りて静坐して書籍に親んだ人であった。足利以来の乱世でも三好実休や太田道灌や細川幽斎は云うに及ばず、明智光秀も豊臣秀吉も武田信玄も上杉謙信も、前に挙げた稲葉一鉄も伊達政宗も、皆文学に志を寄せたもので、要するに文武両道に達するものが良将名将の資格とされて居た時代の信仰にも因ったろうが、そればかりでも無く、人間の本然《ほんねん》を欺き掩《おお》う可からざるところから、優等資質を有して居る者が文雅を好尚するのは自からなることでも有ったろう。今川や大内などのように文に傾き過ぎて弱くなったのもあるが、大将たる程の者は大抵文道に心を寄せていて、相応の造詣《ぞうけい》を有して居た。我儘《わがまま》な太閤《たいこう》殿下は「奥山に紅葉《もみ
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