じ》踏み分け鳴く蛍」などという句を詠じて、細川幽斎に、「しかとは見えぬ森のともし火」と苦しみながら唸《うな》り出させたという笑話を遺して居るが、それでも聚楽第《じゅらくだい》に行幸を仰いだ時など、代作か知らぬが真面目くさって月並調の和歌を詠じている。政宗の「さゝずとも誰かは越えん逢坂《あふさか》の関の戸|埋《うず》む夜半《よは》の白雪《しらゆき》」などは関路[#(ノ)]雪という題詠の歌では有ろうか知らぬが、何様《どう》して中々素人では無い。「四十年前少壮[#(ノ)]時、功名聊[#(カ)]復[#(タ)]自[#(カラ)]私[#(カニ)]期[#(ス)]、老来不[#レ]識干戈[#(ノ)]事、只把[#(ル)]春風桃李[#(ノ)]巵《サカヅキ》」なぞと太平の世の好いお爺さんになってニコニコしながら、それで居て支倉《はせくら》六右衛門、松本忠作等を南蛮から羅馬《ローマ》かけて遣って居るところなどは、味なところのある好い男ぶりだ。その政宗監視の役に当った氏郷は、文事に掛けても政宗に負けては居なかった。後に至って政宗方との領分争いに、安達ヶ原は蒲生領でも川向うの黒塚というところは伊達領だと云うことであった時、平兼盛の「陸奥《みちのく》の安達か原の黒塚に鬼|籠《こも》れりといふはまことか」という歌があるから安達が原に附属した黒塚であると云った氏郷の言に理が有ると認められて、蒲生方が勝になったという談《はなし》は面白い公事《くじ》として名高い談である。其の逸話は措《お》いて、氏郷が天正二十年即ち文禄元年朝鮮陣の起った時、会津から京まで上って行った折の紀行をものしたものは今に遺っている。文段歌章、当時の武将のものとしては其才学を称すべきものである。辞世の歌の「限りあれば吹かねど花は散るものを心短き春の山風」の一章は誰しも感歎《かんたん》するが実に幽婉《ゆうえん》雅麗で、時や祐《たす》けず、天|吾《われ》を亡《うしな》う、英雄志を抱いて黄泉に入る悲涼《ひりょう》愴凄《そうせい》の威を如何にも美《うる》わしく詠じ出したもので、三百年後の人をして猶《なお》涙珠《るいじゅ》を弾ぜしむるに足るものだ。そればかりでは無い、政宗も底倉幽居を命ぜられた折に、心配の最中でありながら千[#(ノ)]利休を師として茶事《さじ》を学んで、秀吉をして「辺鄙《ひな》の都人」だと嘆賞させたが、氏郷は早くより茶道を愛して、
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