信をして夜討を掛けさせた時と、七月二日に氏房が復《また》春日|左衛門尉《さえもんのじょう》をして夜討を掛けさせた時とである。五月三日の夜のは小田原勢がまだ勢の有った時なので中々猛烈であったが、蒲生勢の奮戦によって勿論|逐払《おいはら》った。然し其時の闘は如何にも突嗟《とっさ》に急激に敵が斫入《きりい》ったので、氏郷自身まで鎗《やり》を取って戦うに至ったが、事済んで営に帰ってから身内をばあらためて見ると、鎧《よろい》の胸板《むないた》掛算《けさん》に太刀疵《たちきず》鎗疵《やりきず》が四ヶ処、例の銀の鯰《なまず》の兜《かぶと》に矢の痕《あと》が二ツ、鎗の柄には刀痕《とうこん》が五ヶ処あったという。以て氏郷が危険を物の数ともせずして、自分の身を自分が置くべきとする処に置いた以上は一歩も半歩も退《ひ》かぬ剛勇の人であることが窺《うかが》い知られる。つまり氏郷は他を律することも厳峻《げんしゅん》な代りに自ら律することも厳峻な人だったのである。
 是《かく》の如き人は主人としては畏《おそ》ろしくもあれば頼もしくもある人で、敵としては所謂《いわゆる》手強《てごわ》い敵、味方としては堅城鉄壁のようなものである。然し是の如きの人には、ややもすれば我執の強い、古い言葉で云えば「カタムクロ」の人が多いものだが、流石《さすが》に氏郷は器量が小さくない、サラリとした爽朗《そうろう》快活なところもあった人だ。嘗《かつ》て九州陣巌石の城攻の時に軍令に背いて勘当された臣下の者共が、氏郷と交情の好かった細川越中守忠興を頼んで詫言《わびごと》をして貰って、復《また》新《あらた》に召抱えられることになった。其中に西村左馬允という者があって、大の男の大力の上に相撲は特更《ことさら》上手の者であった。其男が勘当を赦《ゆる》されて新に召還《めしかえ》されたばかりの次の日出仕すると、左馬允、汝は大力相撲上手よナ、さあ一番来い、おれに勝てるか、といって氏郷が相撲を挑《いど》んだ。氏郷ももとより非力の相撲弱では無かったのであろう。左馬允は弱った。勘気を赦されて帰り新参になったばかりなので、主人を叩きつけて主人が好い心持のする筈は無いから、当惑するのに無理は無い。然し主命である、挑まれて相手にならぬ訳には行かぬから、心得ましたと引組んで捻合《ねじあ》った。勝てば怒られる、わざと負けるのは軽薄でもあり心外でもある、と
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