と》受取りかねるのである。
今一ツの伝説は、秀吉が会津守護の人を選ぶに就いて諸将に入札をさせた。ところが札を開けて見ると、細川越中守というのが最も多かった。すると秀吉は笑って、おれが天下を取る筈だわ、ここは蒲生忠三郎で無くてはならぬところだ、と云って氏郷を任命したというのだ。おれが天下を取る筈だわ、という意は人々の識力眼力より遥に自分が優《まさ》って居るという例の自慢である。此話に拠ると、会津に蒲生氏郷を置こうというのは最初から秀吉の肚裏《とり》に定まって居たことで、入札はただ諸将の眼力を秀吉が試みたということになるので、そこが些《ちと》訝《いぶ》かしい。往復ハガキで下らない質問の回答を種々の形の瓢箪《ひょうたん》先生がたに求める雑誌屋の先祖のようなものに、千成瓢箪殿下が成下るところが聊《いささ》か憫然《びんぜん》だ。いろいろの談の孰れが真実だか知らないが、要するに会津守護は当時の諸将の間の一問題で好談柄で有ったろうから、随《したが》って種々の臆測談や私製任命や議論やの話が転伝して残ったのかも知れないと思わざるを得ぬ。
何はあれ氏郷は会津守護を命ぜられた。ところが氏郷も一応は辞した。それでも是非頼むという訳だったろう、そこで氏郷は条件を付けることにした。今の人なら何か自分に有利な条件を提出して要求するところだが、此時分の人だから自己利益を本として釣鉤《つりばり》の※[#「金+幾」、第4水準2−91−39]《かかり》のようなイヤなものを出しはしなかった。ただ与えられた任務を立派に遂行し得るために其便宜を与えられることを許されるように、ということであった。それは奥州鎮護の大任を全うするに付けては剛勇の武士を手下に備えなければならぬ、就ては秀吉に対して嘗《かつ》て敵対行為を取って其|忌諱《きい》に触れたために今に何《ど》の大名にも召抱えられること無くて居る浪人共をも宥免《ゆうめん》あって、自分の旗の下に置くことを許容されたい、というのであった。まことに此の時代の事であるから、一能あるものでも嘗《かつ》て秀吉に鎗先《やりさき》を向けた者の浪人したのは、たとい召抱えたく思う者があっても関白への遠慮で召抱えかねたのであった。氏郷の申出は立派なものであった。秀吉たる者之を容れぬことの有ろう筈は無い。敵対又は勘当の者なりとも召抱|扶持《ふち》等随意たるべきことという許しは与えら
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