れた。小田原の城中に居た佐久間|久右衛門尉《きゅうえもんのじょう》は柴田勝家の甥であった。同じく其弟の源六は佐々《さっさ》成政の養子で、二人|何《いづ》れも秀吉を撃取《うちとり》にかかった猛将佐久間|玄蕃《げんば》の弟であったから、重々秀吉の悪《にく》しみは掛っていたのだ。此等の士は秀吉の敵たる者に扶持されぬ以上は、秀吉が威権を有して居る間は仮令《たとい》器量が有っても世の埋木《うもれぎ》にならねばならぬ運命を負うて居たのだ。まだ其他にも斯様《こう》いう者は沢山有ったのである。徳川家康に悪まれた水野三右衛門の如きも其一例だ。当時自己の臣下で自分に背いた不埒《ふらち》な奴に対して、何々という奴は当家に於て差赦《さしゆる》し難き者でござると言明すると、何《ど》の家でも其者を召抱えない。若《も》し召抱える大名が有れば其大名と前の主人とは弓箭沙汰《きゅうせんざた》になるのである。これは不義背徳の者に対する一種の制裁の律法であったのである。そこで斯様いう埋木に終るべき者を取入れて召抱える権利を此機に乗じて秀吉から得たのは実に賢いことで、氏郷に取っては其大を成す所以《ゆえん》である。前に挙げた水野三右衛門の如きも徳川家から赦されて氏郷に属するに至り、佐久間久右衛門尉兄弟も氏郷に召抱えられ、其他同様の境界《きょうがい》に沈淪《ちんりん》して居た者共は、自然関東へ流れ来て、秀吉に敵対行為を取った小田原方に居たから、小田原没落を機として氏郷の招いだのに応じて、所謂《いわゆる》戦場往来のおぼえの武士《つわもの》が吸寄せられたのであった。
 氏郷が会津に封ぜられると同時に木村伊勢守の子の弥一右衛門は奥州の葛西大崎に封ぜられた。葛西大崎は今の仙台よりも猶《なお》奥の方であるが、政宗の手は既に其辺にまで伸びて居て、前年十一月に大崎の臣の湯山隆信という者を引込んで、内々大崎氏を図らしめて居たのである。秀吉が出て来さえしなければ、無論大崎氏葛西氏は政宗の麾下《きか》に立つを余儀なくされるに至ったのであろう。此の木村父子は小身でもあり、武勇も然程《さほど》では無い者であったから、秀吉は氏郷に対して、木村をば子とも家来とも思って加護《かば》って遣れ、木村は氏郷を親とも主《しゅ》とも思って仰ぎ頼め、と命令し訓諭した。これは氏郷に取っては旅行に足弱を托《かず》けられたようなもので、何事も無ければまだしも
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