い話が伝えられている。その話の一ツは最初に秀吉が細川越中守|忠興《ただおき》を会津守護にしようとしたところが、越中守忠興が固く辞退した、そこで飯鉢《おはち》は氏郷へ廻った、ということである。細川忠興も立派な一将であるが、歌人を以て聞えた幽斎の後で、人物の誠実温厚は余り有るけれど、不知案内の土地へ移って、気心の知り兼ねる政宗を向うへ廻して取組もうというには如何であった。若《も》し其説が真実であるとすれば、忠興が固辞したということは、忠興の智慮が中々深くて、能《よ》く己を知り彼を知って居たということを大《おおい》に揚げるべきで、忠興の人物を一段と立派にはするが、秀吉に取っては第一には其の眼力が心細く思われるのであり、第二に辞退されて、ああ然様《そう》か、と済ませたことが下らなく思われるのである。で、この話は事実で有ったか知らぬが面白く無く思われる。
又今一つの話は、秀吉が会津を誰に托《たく》そうかというので、徳川家康と差向いで、互に二人ずつ候補者を紙札に書いて置いてから、そして出して見た。ところが秀吉の札では一番には堀久太郎|秀治《ひではる》、二番には蒲生忠三郎、家康の札では一番に蒲生忠三郎、二番に堀久太郎であった。そこで秀吉は、奥州は国侍の風が中々|手強《てごわ》い、久太郎で無くては、と云うと、家康は、堀久太郎と奥州者とでは茶碗と茶碗でござる、忠三郎で無くては、と云ったというのである。茶碗と茶碗とは、固いものと固いものとが衝突すれば双方砕けるばかりという意味であろう。で、秀吉が悟って家康の言を用いたのであるというのだ。此|談《はなし》は余程おもしろいが、此談が真実ならば、蟹《かに》では無いが家康は眼が高くて、秀吉は猿のように鼻が低くなる訳だ。堀久太郎は強いことは強いが、後に至って慶長の三年、越後の上杉景勝の国替のあとへ四十五万石(或は七十万石)の大封《たいほう》を受けて入ったが、上杉に陰で糸を牽《ひ》かれて起った一揆《いっき》の為に大に手古摺《てこず》らされて困った不成績を示した男である。又氏郷は相縁《あいえん》奇縁というものであろう、秀吉に取っては主人筋である信長の婿でありながら秀吉には甚だ忠誠であり、縁者として前田又左衛門利家との大の仲好しであったが、家康とは余り交情の親しいことも無かったのであり、政宗は却《かえっ》て家康と馬が合ったようであるから、此談も些《ち
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