それには及び申さぬ、と挨拶したという。大谷吉隆に片倉景綱、これも好い取組だ。互に抜目の無い挙動応対だったろう。秀吉の前に景綱も引見された時、吉隆が、会津の城御引渡しに相成るには幾日を以てせらるる御積りか、と問うたら、小十郎は、ただ留守居の居るばかりでござる、何時にても差支はござらぬ、と云ったというが、好い挨拶だ。平生行届いていて、事に当って埒の明く人であることが伺われる。これで其上に剛勇で正実なのだから、秀吉が政宗の手から取って仕舞いたい位に思ったろう、大名に取立てようとした。が、小十郎は恩を謝するだけで固辞して、飽迄伊達家の臣として身を置くを甘んじた。これも亦感ずべきことで、何という立派な其人柄だろう。浅野六右衛門正勝、木村弥一右衛門清久は会津城を受取った。七月に小田原を潰《つぶ》して、八月には秀吉はもう政宗の居城だった会津に居た。土地の歴史上から云えば会津は蘆名に戻さるべきだが、蘆名は一度もう落去したのである、自己の地位を自己で保つ能力の欠乏して居ることを現わして居るものである。此の枢要《すうよう》の地を材略武勇の足らぬものに托《たく》して置くことは出来ぬ。まして伊達政宗が連年血を流し汗を瀝《したた》らして切取った上に拠ったところの地で、いやいやながら差出したところであり、人情として涎《よだれ》を垂らし頤《あご》を朶《た》れて居るところである、又|然《さ》なくとも崛強《くっきょう》なる奥州の地武士が何を仕出さぬとも限らぬところである、また然様いう心配が無くとも広闊《こうかつ》な出羽奥州に信任すべき一雄将をも置かずして、新付《しんぷ》の奥羽の大名等の誰にもせよに任かせて置くことは出来ぬところである。是《ここ》に於て誰か知ら然る可き人物を会津の主将に据えて、奥州出羽の押えの大任、わけては伊達政宗をのさばり出さぬように、表はじっとりと扱って事端を発させぬように、内々はごっつりと手強くアテテ屏息《へいそく》させるような、シッカリした者を必要とするのである。
 此のむずかしい場処の、むずかしい場合の、むずかしい役目を引受けさせられたのが鎮守府将軍田原|藤太秀郷《とうだひでさと》の末孫《ばっそん》と云われ、江州《ごうしゅう》日野の城主から起って、今は勢州松坂に一方の将軍星として光を放って居た蒲生忠三郎氏郷であった。
 氏郷が会津の守護、奥州出羽の押えに任ぜられたに就ては面白
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