ば其次は自分である。北条も此方に対しては北条|陸奥守《むつのかみ》氏輝が後藤基信に好《よし》みを通じて以来仲を好くしている、猿面冠者を敵にして立上るなら北条の亡ぼされぬ前に一日も早く上州野州武州と切って出て北条に勢援すべきだが、仙道諸将とは予《かね》てよりの深仇《しんきゅう》宿敵であり、北条の手足を※[#「てへん+宛」、第3水準1−84−80]《も》ぐ為に出て居る秀吉方諸将の手並の程も詳しく承知しては居ぬ。さればと云って今更帰伏して小田原攻参会も時おくれとなっている、忌々《いまいま》しくもある。切り合って闘いたいが自分の方の石の足らぬ碁だ、巧く保ちたいが少し手数後《てかずおく》れになって居る碁で、幾許《いくばく》かの損は犠牲にせねばならなくなっている。そして決着は孰《いず》れにしても急がねばならないところだ。胸算の顔は眼玉がパッチパチ、という柳風の句があるが、流石の政宗だから見苦しい眼パチパチも仕無かったろうけれど、左思右考したには違い無い。しかし何様しても天下を敵に廻し、朝命に楯《たて》をついて、安倍の頼時や、平泉の泰衡《やすひら》の二の舞を仕て見たところが、骰子《さい》の目が三度も四度も我が思う通りに出ぬものである以上は勝てようの無いことは分明だ。そこで、残念だが仕方が無い、小田原が潰《つぶ》されて終ってからでは後手《ごて》の上の後手になる、もう何を擱《お》いても秀吉の陣屋の前に馬を繋《つな》がねばならぬ、と考えた。そこで、何様である、徳川殿の勧めに就こうかと思うが、といいながら老臣等を見渡すと、ムックリと頭《こうべ》を擡《もた》げたのが伊達藤五郎|成実《しげざね》だ。
藤五郎成実は立派な奥州侍の典型だ。天正の十三年、即ち政宗の父輝宗が殺された其年の十一月、佐竹、岩城以下七将の三万余騎と伊達勢との観音堂の戦に、成実の軍は味方と切離されて、敵を前後に受けて恐ろしい苦戦に陥った。其時成実の隊の下郡山内記《したこおりやまないき》というものが、此処で打死しても仕方が無い、一旦は引退かれるが宜くはないか、と云った折に、ギリギリと歯を切《くいしば》って、ナンノ、藤五郎成実、魂魄《たましい》ばかりに成り申したら帰りも致そう、生身で一[#(ト)]歩《あし》でも後へさがろうか、と罵《ののし》って悪戦苦闘の有る限りを尽した。それで其戦も結局勝利になったため、今度《このたび》の合戦
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