、全く其方一手の為に全軍の勝となった、という感状を政宗から受けた程の勇者である。戦場には老功、謀略も無きにあらぬ中々の人物で、これも早くから信長秀吉の眼の近くに居たら一ヶ国や二ヶ国の大名にはなったろう。政宗元服の式の時には此の藤五郎成実が太刀《たち》を奉じ、片倉小十郎景綱が小刀《しょうとう》を奉じたのである。二人は真に政宗が頼み切った老臣で、小十郎も剛勇だが智略分別が勝り、藤五郎も智略分別に逞《たくま》しいが勇武がそれよりも勝って居たらしい。
 其藤五郎成実が主人の上を思う熱心から、今や頭を擡げ眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》って、藤五郎存ずる旨を申上げとうござる、秀吉関東征伐は今始まったことではござらぬ、既に去年冬よりして其事定まり、朝命に従い北条攻めの軍に従えとは昨年よりの催促、今に至って小田原へ参向するとも時は晩《おく》れ居り、遅々緩怠の罪は免るるところはござらぬ、たとえ厳しく咎《とが》められずとも所領を召上げられ、多年|弓箭《ゆみや》にかけて攻取ったる国郡をムザムザ手離さねばならぬは必定の事、我が君今年正月七日の連歌《れんが》の発句に、ななくさを一[#(ト)]手によせて摘む菜|哉《かな》と遊ばされしは、仙道七郡を去年の合戦に得たまいしよりのこと、それを今更秀吉の指図に就かりょうとは口惜しい限り、とてもの事に城を掻き寨《とりで》を構え、天下を向うに廻して争おうには、勝敗は戦の常、小勢が勝たぬには定まらず、あわよくば此方が切勝って、旗を天下に樹《た》つるに及ぼうも知れず、思召《おぼしめ》しかえさせられて然るべしと存ずる、と勇気|凜々《りんりん》四辺《あたり》を払って扇を膝に戦場|叱咤《しった》の猛者声《もさごえ》で述べ立てた。其言の当否は兎に角、斯様《こう》いう場合斯様いう人の斯様いう言葉は少くも味方の勇気を振興する功はあるもので、たとえ無用にせよ所謂《いわゆる》無用の用である。ヘタヘタと誰も彼も降参気分になって終《しま》ったのでは其後がいけない、其家の士気というものが萎靡《いび》して終う。藤五郎も其処を慮《おもんぱか》って斯様いうことを言ったものかも知れぬ、又或は真に秀吉の意に従うのが忌々《いまいま》しくて斯様云ったのかも知れぬ。政宗も藤五郎の勇気ある言を嬉しく聞いたろう。然し何等の答は発せぬ。片倉小十郎は黙然として居る。すると原田左馬介
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