る、金字形したる山の嶺の、心あてに見しあたりならぬところに突として面出す、ことにおもしろし。

      坂東太郎

 丹波太郎は西鶴の文に出でたりと覚えたり、坂東太郎は未だ古人の文に其風情をしるされざるにや、雲にも人に知らるゝ知られざるのあるもをかし。坂東太郎は東京にて夏の日など見ゆる恐ろしげなる雲なり。夕立雨の今や来たらんといふやうなる時、天の半《なかば》を一面に蔽ひて、十万の大兵野を占めたる如く動かすべくもあらぬさまに黒みわたり、しかも其中に風を含みたりと覚しく、今や動《ゆる》ぎ出さんとする風情、まことに一敗の後の将卒必死を期してこと/″\く静まりかへつたるが中に勃々として抑ふべからざる殺気を含めるが如し。此雲天に瀰《はびこ》るとやがて、風ざわ/\と吹き下し、雨どつと落ちかゝり来るならひにて、あらしめきたる空合に此雲の出でたる、また無く物すさまじく、をかしき形などある雲とは異りて、秋水の千里を浸し犯す如く出で来れる宏壮の趣きありて、心弱き児女の愛する能はざるものなり。東京の市中《まちなか》にて眼にするものの中、此雲の風情など除きては、壮快なるものいと少かるべし。

      
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