度支員外郎|宋迪《そうてき》の事で、平沙《へいさ》落雁《らくがん》、遠浦《ゑんぽ》歸帆《きはん》、山中《さんちゆう》晴嵐《せいらん》、江天《こうてん》暮雪《ぼせつ》、洞庭《どうてい》秋月《しうげつ》、瀟湘《せうしやう》夜雨《やう》、煙寺《えんじ》晩鐘《ばんしよう》、漁村《ぎよそん》夕照《せきせう》、之を八景といつて得意の畫であつたといふのである。後の八景といふのがこれに基《もと》づいてゐることは疑はれない。美術天子の宋の徽宗《きそう》皇帝が、張※[#「晉+戈」、第4水準2−12−85]《ちやうせん》といふ畫人をして舟に乘じて往いて山水《さんすゐ》の勝《しよう》を觀て八景の圖を作るやうに命ぜられたといふことも、傳へられてゐる談であるから、八景のはじまりは宋であつて、そしてその山水は平遠山水であつたことも疑はれない。
 我邦では東山《ひがしやま》の頃、玉澗《ぎよくかん》の八景の畫が珍重されて、それから八景々々といひ出されたのだが、その玉澗の八景が宋迪の八景から系統を引いたものであることも想像されるに難くない。それからその後|慶長《けいちやう》元和《げんな》の頃、京の圓光寺の長老がゆゑあつて
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