近江|蟄居《ちつきよ》の時、琵琶湖付近の景を瀟湘八景に擬して當時の人々から詩歌などを得た。それがいはゆる近江八景のはじまりだが、白石でさへ、好い景色は何も八景には限らないことだのに、景としては夜雨、秋月、歸帆、落雁ならぬはないのは餘り不雅《ふが》なことである、と厭《いと》はしく思つてゐる。も一つ又八景については、徳川期最初の大儒の惺窩《せいくわ》先生がその市原山莊に八景を擇んで人々の詩歌を得たことがある。そんなこんなで八景といふことを段々人がいふやうになつたのだが、その市原山莊の八景沙汰も契沖《けいちゆう》は雜々記に餘りよくはいつてゐない。とにかくに江戸期はこんな譯で八景を擇むことは大流行を來し、少し眺望《ながめ》が好いところは何八景彼八景といつたものだが、いづれも復古や玉澗の餘唾《よだ》で、有難くないことだつた。ところが今度の八景は、すつかりさういふ古軌道にあづからず、新眼新選、廣く大八洲内から八勝を選んで、一景一面目、各※[#二の字点、1−2−22]その美を揚ぐるやうにせしめたのは、景色觀賞においての畫時代的記録を作つたもので甚だ愉快である。
と、こんなことを語つたり思つたりしてゐる中に、晴れたり曇つたりする日の右手の車窓には梅雨《つゆ》の雲の間に筑波の山が下總《しもふさ》の青田の上、野州《やしう》の畑の上から美しいその姿を見せ、左方の日光つゞきの山々はなほ薄雲の中に隱れてゐて、早くも宇都宮《うつのみや》に着き、やがて日光驛に着いた。
二
停車場を出ると直《たゞち》に自動車に乘つて山上へと心ざした。本來|今市《いまいち》から日光までの路は、例の杉並木の好い路であるから、汽車で乘越すのは惜いのであるが、時代を逆行させて、白地の夏の衣の袖さへ青む杉の翠《みどり》の蔭を、煙草《たばこ》の烟吹きながら歩くむかしに返すことも出來ないことであるから是非無いとして、日光へは一夜宿つて東照宮其他を拜觀すべきであるが、それはすでに二人共に幾度か濟ませてゐることでもあり今度の目的でもないから、いきなりプー/\と山へ上つたが、馬返しまではたゞ一飛びであつた。それからは地名があらはしてゐる如く山路けはしくなるので、道路は文明のお蔭で汗も流さず車中に安坐しながら登り得るものゝ、時々急勾配の電光形状の屈曲角になると、車も一寸《ちよつと》逆行して方向を鹽梅《あんばい》しなけれ
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