めん》は唐《たう》あたりからある、イヤ景色に八ツを取立てゝいつたのは南齊《なんせい》の沈約《しんやく》の八詠樓など、或はもつと古いところにあるか知らぬが、金華の元暢樓に沈約が八篇の詩を題してその景色をほめたところから、後に八詠樓と人が呼んだ。李太白が金華《きんくわ》|開[#二]八景[#一]《はつけいをひらく》と吟じたのも即ちその八詠樓の事で、任華といふ男が太白に寄せた詩に、八詠樓中|坦腹《たんぷく》にして眠るといふ句のあるのも、即ち同じその元暢樓をいつたのである。又たゞ單に八景といふ字面は別にあるが、それは三元や三聖といふ言葉と對になるので、景色の事では無い、黄庭内景などといふ景の字と同じ意味に用ゐられたもので、人の身體に上部中部下部の八景がある。上部の八景は腦、髮、眼、耳、鼻、口、舌、齒であるといふのであつて、道家《だうか》の語である。そんなことはどうでもよい。が、古い詩の句の八景といふのは、この道家の語の八景を知らぬと解がとゞかぬやうになる。今の何々八景といふのは、白石《はくせき》手簡《しゆかん》に八景のはじめは宋人か元人かにて宋復古と申す畫工云々とあるが、それは夢溪筆談に出てゐる度支員外郎|宋迪《そうてき》の事で、平沙《へいさ》落雁《らくがん》、遠浦《ゑんぽ》歸帆《きはん》、山中《さんちゆう》晴嵐《せいらん》、江天《こうてん》暮雪《ぼせつ》、洞庭《どうてい》秋月《しうげつ》、瀟湘《せうしやう》夜雨《やう》、煙寺《えんじ》晩鐘《ばんしよう》、漁村《ぎよそん》夕照《せきせう》、之を八景といつて得意の畫であつたといふのである。後の八景といふのがこれに基《もと》づいてゐることは疑はれない。美術天子の宋の徽宗《きそう》皇帝が、張※[#「晉+戈」、第4水準2−12−85]《ちやうせん》といふ畫人をして舟に乘じて往いて山水《さんすゐ》の勝《しよう》を觀て八景の圖を作るやうに命ぜられたといふことも、傳へられてゐる談であるから、八景のはじまりは宋であつて、そしてその山水は平遠山水であつたことも疑はれない。
我邦では東山《ひがしやま》の頃、玉澗《ぎよくかん》の八景の畫が珍重されて、それから八景々々といひ出されたのだが、その玉澗の八景が宋迪の八景から系統を引いたものであることも想像されるに難くない。それからその後|慶長《けいちやう》元和《げんな》の頃、京の圓光寺の長老がゆゑあつて
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