花のいろ/\
幸田露伴
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)賢《さか》しげにいふ人は、
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)心|敦《あつ》げなる
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、底本のページと行数)
(例)※[#「※」は「均のつくり」、読みは「にほひ」、第3水準1−14−75、123−2]ひ
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)花のいろ/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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梅
梅は野にありても山にありても、小川のほとりにありても荒磯の隈にありても、たゞおのれの花の美しく香の清きのみならず、あたりのさまをさへ床しきかたに見さするものなり。崩れたる土塀、歪みたる衡門、あるいは掌のくぼほどの瘠畠、形ばかりなる小社などの、常は眼にいぶせく心にあかぬものも、それ近くにこの花の一ト木二タ木咲き出づるあれば、をかしきものとぞ眺めらるゝ。たとへば徳高く心清き人の、如何なるところにありても、其居るところの俗には移されずして、其居るところの俗を易ふるがごとし。出師の表を読みて涙をおとさぬ人は猶友とすべし、この花好まざらん男は奴とするにも堪へざらん。
紅梅
紅梅の香なきは艶なる女の歌ごゝろ無きが如し。香あるはいと嬉し。まだ新しくて青き光失せぬ建仁寺籬折りまはしたる小さき坪の中に咲き出でたる、あるはまたよろづ黒みわたりたる古き大寺の書院の椽近く※[#「※」は「均のつくり」、読みは「にほひ」、第3水準1−14−75、123−2]ひこぼるゝなど、云ひがたき佳きおもむきあり。梅は白きこそよけれ紅なるは好ましからずなんど賢《さか》しげにいふ人は、心ざまむげに賤し。花は彼此をくらべて甲乙をいふべきものかは。
牡丹
牡丹は人の力の現はるゝ花なり。打捨て置きては、よきものも漸く悲しき花のさまになり行けど、培ひ養ふこと怠らねば、おのづからなる美しさも一トしほ増して、おだやかなる日の光りの下に、姿ゆたけく咲き出でたる、憂き世の物としも無くめでたし。ひとへざきなるも好く、八重ざきなるも好く、やぐらざきなるも好し。此花のすぐれて美しきを見るごとに、人の力といふものも、さて価低からぬものなるよ、と身にしみてぞ思はるゝ。
巌桂
木犀というもの、花は眼をたのしますほどにあらねど、時至りて咲き出づるや、たれこめて書《ふみ》読む窓の内にまでも其香をしのび入らせ、我ありと知らせ顔に園の隅などにてひそかに風に嘯ける、心にくし。甘く芳《かぐ》はしき香も悪しからず、花の黄金色なせるも地にこぼれて後も見ておもむき無きならず。たゞ余りに香の強きのみぞ、世を遁れたる操高き人の余りに多く歌よみたらん如く、却つて少し口惜きかたもあるように思はる。
柘榴
人の心もやゝ倦む頃の天《そら》に打対ひて、青葉のあちこち見ゆる中に、思切つたる紅の火を吐く柘榴の花こそ眼ざましけれ。人の眼を惹くあはれさのありといふにもあらず、人の眼を驚かす美はしさのありといふにもあらねど、たゞ人の眼を射る烈しさを有てりとやいふべき。
海棠
牡丹の盛りには蝶蜂の戯るゝを憎しとも思はねど、海棠の咲き乱れたるには色ある禽《とり》の近づくをだに嫉《ねた》しとぞおもふ。まことに花の美しくあはれなる、これに越えたるはあらじ。雨に悩める、露に※[#「※」は「さんずい+邑」、第3水準1−86−72、124−9]《うる》ほへる、いづれ艶なるおもむきならぬは無し。緋《ひ》木瓜《ぼけ》はこれの侍婢《こしもと》なりとかや。あら美しの姫君よ。人を迷ひに誘ふ無くば幸なり。
巵子
くちなしは花のすねものなり。生籬《いけがき》などに籠めらるれど恨む顔もせず、日の光りも疎きあたりに心静けく咲きたる、物のあはれ知る人には、身を潜め世に隠れたるもなか/\にあはれ深しと見らるべし。花の香もけやけくはあらで優に澄みわたれる、雲さまよふ晨、風定まる黄昏など、特《こと》に塵の世のものならぬおもむきあり。
瑞香
ぢんちやうげは、市人の俳諧学びたるが如し。たけも高からず、打見たるところも栄《はえ》無けれど、賤しきかたにはあらず。就いて見《まみ》えばをかしからじ、距《へだゝ》りて聞かんには興あらん。
忘憂
萱草のさま/″\の草の間より独り抜け出でゝ長閑に咲ける、世に諂はず人に媚びず、さればとて世を疎みもせず人に背きもせざるおもむきあり。花も百合の美しさは無けれど、しほらしさはあり。よろづ温順《すなほ》にして、君子の体を具へて小なるものともいひつべき
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