し、天下何事か為す可《べ》からざらんや、と奮然として瓜を地に擲《なげう》てば、護衛の軍士皆激怒して、前《すす》んで※[#「日/丙」、第3水準1−85−16]と貴とを擒《とら》え、かねて朝廷に内通せる葛誠《かつせい》盧振《ろしん》等《ら》を殿下に取って押《おさ》えたり。王こゝに於《おい》て杖を投じて起《た》って曰く、我何ぞ病まん、奸臣《かんしん》に迫らるゝ耳《のみ》、とて遂に※[#「日/丙」、第3水準1−85−16]貴等を斬《き》る。※[#「日/丙」、第3水準1−85−16]貴等の将士、二人が時を移して還《かえ》らざるを見、始《はじめ》は疑い、後《のち》は覚《さと》りて、各《おのおの》散じ去る。王城を囲める者も、首脳|已《すで》に無くなりて、手足《しゅそく》力無く、其兵おのずから潰《つい》えたり。張※[#「日/丙」、第3水準1−85−16]《ちょうへい》が部下|北平都指揮《ほくへいとしき》の彭二《ほうじ》、憤慨|已《や》む能《あた》わず、馬を躍らして大《おおい》に市中に呼《よば》わって曰く、燕王反せり、我に従って朝廷の為に力を尽すものは賞あらんと。兵千余人を得て端礼門《たんれいもん》に殺到す。燕王の勇卒|※[#「广+龍」、第3水準1−94−86]来興《ほうらいこう》、丁勝《ていしょう》の二人、彭二を殺しければ、其兵も亦《また》散じぬ。此《この》勢《いきおい》に乗ぜよやと、張玉、朱能等、いずれも塞北《さいほく》に転戦して元兵《げんぺい》と相《あい》馳駆《ちく》し、千軍万馬の間に老い来《きた》れる者なれば、兵を率いて夜に乗じて突いて出で、黎明《れいめい》に至るまでに九つの門の其八を奪い、たゞ一つ下らざりし西直門《せいちょくもん》をも、好言を以て守者を散ぜしめぬ。北平既に全く燕王の手に落ちしかば、都指揮使の余※[#「王+眞」、第4水準2−80−87]《よてん》は、走って居庸関《きょようかん》を守り、馬宣《ばせん》は東して薊州《けいしゅう》に走り、宋忠《そうちゅう》は開平《かいへい》より兵三万を率いて居庸関に至りしが、敢《あえ》て進まずして、退いて懐来《かいらい》を保ちたり。
 煙は旺《さか》んにして火は遂に熾《も》えたり、剣《けん》は抜かれて血は既に流されたり。燕王は堂々として旗を進め馬を出しぬ。天子の正朔《せいさく》を奉ぜず、敢《あえ》て建文の年号を去って、洪武三十二年と称し、道衍《どうえん》を帷幄《いあく》の謀師とし、金忠《きんちゅう》を紀善《きぜん》として機密に参ぜしめ、張玉、朱能、丘福《きゅうふく》を都指揮|僉事《せんじ》とし、張※[#「日/丙」、第3水準1−85−16]部下にして内通せる李友直《りゆうちょく》を布政司《ふせいし》参議《さんぎ》と為《な》し、乃《すなわ》ち令を下して諭して曰く、予は太祖高皇帝の子なり、今|奸臣《かんしん》の為に謀害せらる。祖訓に云《い》わく、朝《ちょう》に正臣無く、内に奸逆《かんぎゃく》あれば、必ず兵を挙げて誅討《ちゅうとう》し、以《もっ》て君側の悪を清めよと。こゝに爾《なんじ》将士を率いて之を誅せんとす。罪人既に得ば、周公の成王《せいおう》を輔《たす》くるに法《のっ》とらん。爾《なんじ》等《ら》それ予が心を体せよと。一面には是《かく》の如くに将士に宣言し、又一面には書を帝に上《たてまつ》りて曰く、皇考太祖高皇帝、百戦して天下を定め、帝業を成し、之を万世に伝えんとして、諸子を封建したまい、宗社を鞏固《きょうこ》にして、盤石の計を為《な》したまえり。然《しか》るに奸臣《かんしん》斉泰《せいたい》黄子澄《こうしちょう》、禍心を包蔵し、※[#「木+肅」、UCS−6A5A、292−11]《しゅく》、榑《ふ》、栢《はく》、桂《けい》、※[#「木+便」、第4水準2−15−14]《べん》の五弟、数年ならずして、並びに削奪《さくだつ》せられぬ、栢《はく》や尤《もっとも》憫《あわれ》むべし、闔室《こうしつ》みずから焚《や》く、聖仁|上《かみ》に在り、胡《なん》ぞ寧《なん》ぞ此《これ》に忍ばん。蓋《けだし》陛下の心に非ず、実に奸臣の為《な》す所ならん。心|尚《なお》未《いま》だ足らずとし、又以て臣に加う。臣|藩《はん》を燕に守ること二十余年、寅《つつし》み畏《おそ》れて小心にし、法を奉じ分《ぶん》に循《したが》う。誠に君臣の大分《たいぶん》、骨肉の至親なるを以て、恒《つね》に思いて慎《つつしみ》を加う。而《しか》るに奸臣|跋扈《ばっこ》し、禍を無辜《むこ》に加え、臣が事を奏するの人を執《とら》えて、※[#「竹かんむり/垂」、UCS−7BA0、293−5]楚《すいそ》[#「※[#「竹かんむり/垂」、UCS−7BA0、293−5]楚」は底本では「※[#「竹かんむり/「垂」の「ノ」の下に「一」を加える」、293−5]楚」]刺※[#「執/糸」、UCS−7E36、293−5]《ししつ》し、備《つぶ》さに苦毒を極め、迫りて臣|不軌《ふき》を謀ると言わしめ、遂に宋忠、謝貴、張※[#「日/丙」、第3水準1−85−16]等を北平城の内外に分ち、甲馬は街衢《がいく》に馳突《ちとつ》し、鉦鼓《しょうこ》は遠邇《えんじ》に喧鞠《けんきく》し、臣が府を囲み守る。已《すで》にして護衛の人、貴※[#「日/丙」、第3水準1−85−16]《きへい》を執《とら》え、始めて奸臣|欺詐《ぎさ》の謀を知りぬ。窃《ひそか》に念《おも》うに臣の孝康《こうこう》皇帝に於《お》けるは、同父母兄弟なり、今陛下に事《つか》うるは天に事うるが如きなり。譬《たと》えば大樹を伐《き》るに、先ず附枝《ふし》を剪《き》るが如し、親藩既に滅びなば、朝廷孤立し、奸臣志を得んには、社稷《しゃしょく》危《あやう》からん。臣|伏《ふ》して祖訓を覩《み》るに云《い》えることあり、朝《ちょう》に正臣無く、内に奸悪あらば、則《すなわ》ち親王兵を訓して命を待ち、天子|密《ひそ》かに諸王に詔《みことのり》し、鎮兵を統領して之を討平せしむと。臣謹んで俯伏《ふふく》して命を俟《ま》つ、と言辞を飾り、情理を綺《いろ》えてぞ奏しける。道衍|少《わか》きより学を好み詩を工《たくみ》にし、高啓《こうけい》と友とし善《よ》く、宋濂《そうれん》にも推奨《すいしょう》され、逃虚子集《とうきょししゅう》十巻を世に留めしほどの文才あるものなれば、道衍や筆を執りけん、或《あるい》は又金忠の輩や詞《ことば》を綴《つづ》りけん、いずれにせよ、柔を外にして剛を懐《いだ》き、己《おのれ》を護《まも》りて人を責むる、いと力ある文字なり。卒然として此《この》書《しょ》のみを読めば、王に理ありて帝に理なく、帝に情《じょう》無くして王に情あるが如く、祖霊も民意も、帝を去り王に就く可《べ》きを覚ゆ。されども擅《ほしいまま》に謝張を殺し、妄《みだり》に年号を去る、何ぞ法を奉ずると云わんや。後苑《こうえん》に軍器を作り、密室に機謀を錬る、これ分《ぶん》に循《したが》うにあらず。君側の奸を掃《はら》わんとすと云うと雖《いえど》も、詔無くして兵を起し、威を恣《ほしいまま》にして地を掠《かす》む。其《その》辞《じ》は則《すなわ》ち可なるも、其実は則ち非なり。飜って思うに斉泰黄子澄の輩の、必ず諸王を削奪せんとするも、亦《また》理に於て欠け、情に於て薄し。夫《そ》れ諸王を重封せるは、太祖の意に出づ。諸王未だ必ずしも反せざるに、先ず諸王を削奪せんとするの意を懐《いだ》いて諸王に臨むは、上《かみ》は太祖の意を壊《やぶ》り、下《しも》は宗室の親《しん》を破るなり。三年父の志を改めざるは、孝というべし。太祖崩じて、抔土《ほうど》未だ乾《かわ》かず、直《ただち》に其意を破り、諸王を削奪せんとするは、是《こ》れ理に於《おい》て欠け情に於て薄きものにあらずして何ぞや。斉黄の輩の為さんとするところ是《かく》の如くなれば、燕王等手を袖にし息を屏《しりぞ》くるも亦《また》削奪罪責を免《まぬ》かれざらんとす。太祖の血を承《う》けて、英雄傑特の気象あるもの、いずくんぞ俛首《べんしゅ》して寃《えん》に服するに忍びんや。瓜《うり》を投じて怒罵《どば》するの語、其中に機関ありと雖《いえど》も、又|尽《ことごと》く偽詐《ぎさ》のみならず、本《もと》より真情の人に逼《せま》るに足るものあるなり。畢竟《ひっきょう》両者|各《おのおの》理あり、各|非理《ひり》ありて、争鬩《そうげい》則《すなわ》ち起り、各|情《じょう》なく、各真情ありて、戦闘則ち生ぜるもの、今に於て誰《たれ》か能《よ》く其の是非を判せんや。高巍《こうぎ》の説は、敦厚《とんこう》悦《よろこ》ぶ可《べ》しと雖も、時既に晩《おそ》く、卓敬《たくけい》の言は、明徹用いるに足ると雖も、勢|回《かえ》し難く、朝旨の酷責すると、燕師《えんし》の暴起すると、実に互《たがい》に已《や》む能《あた》わざるものありしなり。是れ所謂《いわゆる》数《すう》なるものか、非《ひ》耶《か》。


 燕王《えんおう》の兵を起したる建文元年七月より、恵帝《けいてい》の国を遜《ゆず》りたる建文四年六月までは、烽烟《ほうえん》剣光《けんこう》の史《し》にして、今一々|之《これ》を記するに懶《ものう》し。其《その》詳《しょう》を知らんとするものは、明史《みんし》及び明朝紀事本末《みんちょうきじほんまつ》等《ら》に就きて考うべし。今たゞ其|概略《がいりゃく》と燕王恵帝の性格|風※[#「蚌のつくり」、第3水準1−14−6]《ふうぼう》を知る可《べ》きものとを記せん。燕王もと智勇天縦《ちゆうてんしょう》、且《かつ》夙《つと》に征戦に習う。洪武《こうぶ》二十三年、太祖《たいそ》の命を奉じ、諸王と共に元族《げんぞく》を漠北《ばくほく》に征す。秦王《しんおう》晋王《しんおう》は怯《きょ》にして敢《あえ》て進まず、王将軍|傅友徳《ふゆうとく》等を率いて北出し、※[#「二点しんにょう+施のつくり」、第3水準1−92−52]都山《いとさん》に至り、其将|乃児不花《ナルプファ》を擒《とりこ》にして還《かえ》る。太祖|大《おおい》[#「大《おおい》」は底本では「大《おおい》い」]に喜び、此《これ》より後|屡《しばしば》諸将を帥《ひき》いて出征せしむるに、毎次功ありて、威名|大《おおい》に振《ふる》う。王既に兵を知り戦《たたかい》に慣《な》る。加うるに道衍《どうえん》ありて、機密に参し、張玉《ちょうぎょく》、朱能《しゅのう》、丘福《きゅうふく》ありて爪牙《そうが》と為《な》る。丘福は謀画《ぼうかく》の才張玉に及ばずと雖《いえど》も、樸直《ぼくちょく》猛勇、深く敵陣に入りて敢戦死闘し、戦《たたかい》終って功を献ずるや必ず人に後《おく》る。古《いにしえ》の大樹《たいじゅ》将軍の風あり。燕王をして、丘将軍の功は我|之《これ》を知る、と歎美《たんび》せしむるに至る。故に王の功臣を賞するに及びて、福|其《その》首《しゅ》たり、淇国公《きこくこう》に封《ほう》ぜらる。其《その》他《た》将士の鷙悍※[#「敖/馬」、UCS−9A41、297−4]雄《しかんごうゆう》の者も、亦《また》甚《はなは》だ少《すくな》からず。燕王の大事を挙ぐるも、蓋《けだ》し胸算《きょうさん》あるなり。燕王の張※[#「日/丙」、第3水準1−85−16]《ちょうへい》謝貴《しゃき》を斬《き》って反を敢《あえ》てするや、郭資《かくし》を留《とど》めて北平《ほくへい》を守らしめ、直《ただち》に師を出《いだ》して通州《つうしゅう》を取り、先《ま》ず薊州《けいしゅう》を定めずんば、後顧の患《うれい》あらんと云《い》える張玉の言を用い、玉をして之を略せしめ、次《つい》で夜襲して遵化《じゅんか》を降《くだ》す。此《これ》皆|開平《かいへい》の東北の地なり。時に余※[#「王+眞」、第4水準2−80−87]《よてん》居庸関《きょようかん》を守る。王曰く、居庸は険隘《けんあい》にして、北平の咽喉《いんこう》也、敵|此《ここ》に拠《よ》るは、是《こ》れ我が背《はい》を拊《う》つなり、急に取らざる可からずと。乃《すなわ》ち徐安《じょあ
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