ずして必ず噬臍《ぜいせい》の悔《くい》あらん、というに在《あ》り。其の論、彝倫《いりん》を敦《あつ》くし、動乱を鎮《しず》めんというは可なり、斉泰黄子澄を非とするも可なり、たゞ時|既《すで》に去り、勢《いきおい》既に成るの後に於て、此《この》言あるも、嗚呼《ああ》亦|晩《おそ》かりしなり。帝|遂《つい》に用いたまわず。
 景隆の炳文《へいぶん》に代るや、燕王其の五十万の兵を恐れずして、其の五|敗兆《はいちょう》を具せるを指摘し、我|之《これ》を擒《とりこ》にせんのみ、と云い、諸将の言を用いずして、北平《ほくへい》を世子《せいし》に守らしめ、東に出でゝ、遼東《りょうとう》の江陰侯《こういんこう》呉高《ごこう》を永平より逐《お》い、転じて大寧《たいねい》に至りて之を抜き、寧《ねい》王を擁して関《かん》に入る。景隆は燕王の大寧を攻めたるを聞き、師を帥《ひき》いて北進し、遂に北平を囲みたり。北平の李譲《りじょう》、梁明《りょうめい》等《ら》、世子《せいし》を奉じて防守甚だ力《つと》むと雖《いえど》も、景隆が軍|衆《おお》くして、将も亦《また》雄傑なきにあらず、都督《ととく》瞿能《くのう》の如き
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