せられて衰勢に陥り、征西将軍の職を後村上帝《ごむらかみてい》[#「後村上帝」は底本では「御村上帝」]の皇子|良成《ながなり》王に譲り、筑後《ちくご》矢部《やべ》に閑居し、読経礼仏を事として、兵政の務《つとめ》をば執りたまわず、年代|齟齬《そご》[#「齟齬」は底本では「齬齟」]するに似たり。然れども王と明《みん》との交渉は夙《つと》に正平の末より起りしことなれば、王の裁断を以て答書ありしならん。此《この》事《こと》我が国に史料全く欠け、大日本史《だいにほんし》も亦載せずと雖も、彼の史にして彼の威を損ずるの事を記す、決して無根の浮譚《ふだん》にあらず。)一個《いっか》優秀の風格、多く得《う》可《べ》からざるの人なり。洪武十七年、疾《やまい》を得て死するや、太祖親しく文を為《つく》りて祭《まつり》を致し、岐陽王《きようおう》に追封し、武靖《ぶせい》と諡《おくりな》し、太廟《たいびょう》に配享《はいきょう》したり。景隆は是《かく》の如き人の長子にして、其父の蓋世《がいせい》の武勲と、帝室の親眷《しんけん》との関係よりして、斉黄の薦むるところ、建文の任ずるところとなりて、五十万の大軍を統《す》ぶ
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