ありて、戦闘則ち生ぜるもの、今に於て誰《たれ》か能《よ》く其の是非を判せんや。高巍《こうぎ》の説は、敦厚《とんこう》悦《よろこ》ぶ可《べ》しと雖も、時既に晩《おそ》く、卓敬《たくけい》の言は、明徹用いるに足ると雖も、勢|回《かえ》し難く、朝旨の酷責すると、燕師《えんし》の暴起すると、実に互《たがい》に已《や》む能《あた》わざるものありしなり。是れ所謂《いわゆる》数《すう》なるものか、非《ひ》耶《か》。
燕王《えんおう》の兵を起したる建文元年七月より、恵帝《けいてい》の国を遜《ゆず》りたる建文四年六月までは、烽烟《ほうえん》剣光《けんこう》の史《し》にして、今一々|之《これ》を記するに懶《ものう》し。其《その》詳《しょう》を知らんとするものは、明史《みんし》及び明朝紀事本末《みんちょうきじほんまつ》等《ら》に就きて考うべし。今たゞ其|概略《がいりゃく》と燕王恵帝の性格|風※[#「蚌のつくり」、第3水準1−14−6]《ふうぼう》を知る可《べ》きものとを記せん。燕王もと智勇天縦《ちゆうてんしょう》、且《かつ》夙《つと》に征戦に習う。洪武《こうぶ》二十三年、太祖《たいそ》の命を奉じ、諸王
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