い》にして城府を設けず、自ら号して坦坦翁《たんたんおう》といえるにも、其の風格は推知すべし。坦坦翁、生平《せいへい》実に坦坦、文章学術を以て太祖に仕え、礼儀の制、選挙の法を定むるの議に与《あずか》りて定むる所多く、帝の洪範《こうはん》の注成るや、命を承《う》けて序を為《つく》り、勅修《ちょくしゅう》の書、省躬録《せいきゅうろく》、書伝会要《しょでんかいよう》、礼制集要《れいせいしゅうよう》等の編撰《へんせん》総裁となり、居然《きょぜん》たる一宿儒を以て、朝野の重んずるところたり。而して大節《たいせつ》に臨むに至りては、屹《きつ》として奪う可《べ》からず。懿文《いぶん》太子の薨《こう》ずるや、身を挺《ぬき》んでゝ、皇孫は世嫡《せいちゃく》なり、大統を承《う》けたまわんこと、礼|也《なり》、と云いて、内外の疑懼《ぎく》を定め、太孫を立てゝ儲君《ちょくん》となせし者は、実に此の劉三吾たりしなり。三吾太祖の意を知るや、何ぞ言《げん》無からん、乃《すなわ》ち曰《いわ》く、若《も》し燕王を立て給《たま》わば秦王《しんおう》晋王《しんおう》を何の地に置き給わんと。秦王|※[#「木+爽」、UCS−6A
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