らしめ給いぬ。居升の上書の後二十余年、太祖崩じて建文帝立ちたもうに及び、居升の言、不幸にして験《しるし》ありて、漢の七国の喩《たとえ》、眼《ま》のあたりの事となれるぞ是非無き。
七国の事、七国の事、嗚呼《ああ》是れ何ぞ明室《みんしつ》と因縁の深きや。葉居升《しょうきょしょう》の上書の出《い》ずるに先だつこと九年、洪武元年十一月の事なりき、太祖宮中に大本堂《たいほんどう》というを建てたまい、古今《ここん》の図書を充《み》て、儒臣をして太子および諸王に教授せしめらる。起居注《ききょちゅう》の魏観《ぎかん》字《あざな》は※[#「木+巳」、256−9]山《きざん》というもの、太子に侍して書を説きけるが、一日太祖太子に問いて、近ごろ儒臣経史の何事を講ぜるかとありけるに、太子、昨日は漢書《かんじょ》の七図漢に叛《そむ》ける事を講じ聞《きか》せたりと答え白《もう》す。それより談は其事の上にわたりて、太祖、その曲直は孰《いずれ》に在りやと問う。太子、曲は七国に在りと承りぬと対《こた》う。時に太祖|肯《がえん》ぜずして、否《あらず》、其《そ》は講官の偏説なり。景帝《けいてい》太子たりし時、博局《はくき
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