《きょう》に入れるを看《み》るべし。又|其《そ》の克畏《こくい》の箴《しん》を読めば、あゝ皇《おお》いなる上帝、衷《ちゅう》を人に降《くだ》す、といえるより、其の方《まさ》に昏《くら》きに当ってや、恬《てん》として宜《よろ》しく然《しか》るべしと謂《い》うも、中夜《ちゅうや》静かに思えば夫《そ》れ豈《あに》吾が天ならんや、廼《すなわ》ち奮って而して悲《かなし》み、丞《すみ》やかに前轍《ぜんてつ》を改む、と云い、一念の微なるも、鬼神降監す、安しとする所に安んずる勿《なか》れ、嗜《たしな》む所を嗜む勿れ、といい、表裏|交々《こもごも》修めて、本末一致せんといえる如き、恰《あたか》も神を奉ぜるの者の如き思想感情の漲流《ちょうりゅう》せるを見る。父|克勤《こくきん》の、昼の為せるところ、夜は則《すなわ》ち天に白《もう》したるに合せ考うれば、孝孺が善良の父、方正の師、孔孟《こうもう》の正大純粋の教《おしえ》の徳光《とくこう》恵風《けいふう》に浸涵《しんかん》して、真に心胸《しんきょう》の深処よりして道を体し徳を成すの人たらんことを願えるの人たるを看《み》るべき也。
 孝孺既に文芸を末視《まっし》
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