天賦《てんぷ》も厚く、庭訓《ていきん》も厳なりしならん。幼にして精敏、双眸《そうぼう》烱々《けいけい》として、日に書を読むこと寸に盈《み》ち、文を為《な》すに雄邁醇深《ゆうまいじゅんしん》なりしかば、郷人呼んで小韓子《しょうかんし》となせりという。其の聰慧《そうけい》なりしこと知る可し。時に宋濂一代の大儒として太祖の優待を受け、文章徳業、天下の仰望するところとなり、四方の学者、悉《ことごと》く称して太史公《たいしこう》となして、姓氏を以てせず。濂|字《あざな》は、景濂《けいれん》、其《その》先《せん》金華《きんか》の潜渓《せんけい》の人なるを以て潜渓《せんけい》と号《ごう》す。太祖|濂《れん》を廷《てい》に誉《ほ》めて曰く、宋景濂|朕《ちん》に事《つか》うること十九年、未《いま》だ嘗《かつ》て一|言《げん》の偽《いつわり》あらず、一人《いちにん》の短《たん》を誚《そし》らず、始終|二《に》無し、たゞに君子のみならず、抑《そもそも》賢と謂《い》う可しと。太祖の濂を視《み》ること是《かく》の如し。濂の人品|想《おも》う可き也《なり》。孝孺|洪武《こうぶ》の九年を以て、濂に見《まみ》えて弟子
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