を奪えるに歯を切《くいしば》り、慷慨《こうがい》悲憤して以て回天の業を為《な》さんとするの女英雄《じょえいゆう》となす。女仙外史の人の愛読|耽翫《たんがん》を惹《ひ》く所以《ゆえん》のもの、決して尠少《せんしょう》にあらずして、而して又実に一|篇《ぺん》の淋漓《りんり》たる筆墨《ひつぼく》、巍峨《ぎが》たる結構を得る所以のもの、決して偶然にあらざるを見る。
 賽児《さいじ》は蒲台府《ほだいふ》の民《たみ》林三《りんさん》の妻、少《わか》きより仏を好み経を誦《しょう》せるのみ、別に異ありしにあらず。林三死して之《これ》を郊外に葬《ほうむ》る。賽児墓に祭りて、回《かえ》るさの路《みち》、一山の麓《ふもと》を経たりしに、たま/\豪雨の後にして土崩れ石|露《あら》われたり。これを視《み》るに石匣《せきこう》なりければ、就《つ》いて窺《うかが》いて遂《つい》に異書と宝剣とを得たり。賽児これより妖術に通じ、紙を剪《き》って人馬となし、剣《けん》を揮《ふる》って咒祝《じゅしゅく》を為《な》し、髪を削って尼となり、教《おしえ》を里閭《りりょ》に布《し》く。祷《いのり》には効あり、言《ことば》には験《げん》ありければ、民|翕然《きゅうぜん》として之に従いけるに、賽児また饑者《きしゃ》には食《し》を与え、凍者には衣を給し、賑済《しんさい》すること多かりしより、終《つい》に追随する者数万に及び、尊《とうと》びて仏母と称し、其《その》勢《いきおい》甚《はなは》だ洪大《こうだい》となれり。官|之《これ》を悪《にく》みて賽児を捕えんとするに及び、賽児を奉ずる者|董彦杲《とうげんこう》、劉俊《りゅうしゅん》、賓鴻《ひんこう》等、敢然として起《た》って戦い、益都《えきと》、安州《あんしゅう》、※[#「くさかんむり/呂」、第3水準1−90−87]州《きょしゅう》、即墨《そくぼく》、寿光《じゅこう》等、山東諸州|鼎沸《ていふつ》し、官と賊と交々《こもごも》勝敗あり。官兵|漸《ようや》く多く、賊勢日に蹙《しじ》まるに至って賽児を捕え得、将《まさ》に刑に処せんとす。賽児|怡然《いぜん》として懼《おそ》れず。衣を剥《は》いで之を縛《ばく》し、刀《とう》を挙げて之を※[#「石+欠」、第4水準2−82−33]《き》るに、刀刃《とうじん》入る能《あた》わざりければ、已《や》むを得ずして復《また》獄に下し、械枷《かいか》を体《たい》に被《こうむ》らせ、鉄鈕《てっちゅう》もて足を繋《つな》ぎ置きけるに、俄《にわか》にして皆おのずから解脱《げだつ》し、竟《つい》に遯《のが》れ去って終るところを知らず。三司郡県将校《さんしぐんけんしょうこう》等《ら》、皆|寇《あだ》を失うを以て誅《ちゅう》せられぬ。賽児は如何《いかが》しけん其後|踪跡《そうせき》杳《よう》として知るべからず。永楽帝怒って、およそ北京《ほくけい》山東《さんとう》の尼姑《にこ》は尽《ことごと》く逮捕して京に上せ、厳重に勘問《かんもん》し、終《つい》に天下の尼姑という尼姑を逮《とら》うるに至りしが、得る能《あた》わずして止《や》み、遂に後の史家をして、妖耶《ようか》人耶《ひとか》、吾《われ》之《これ》を知らず、と云《い》わしむるに至れり。
 世の伝うるところの賽児の事既に甚《はなは》だ奇、修飾を仮《か》らずして、一部|稗史《はいし》たり。女仙外史の作者の藉《か》りて以《もっ》て筆墨を鼓《こ》するも亦《また》宜《むべ》なり。然《しか》れども賽児の徒、初《はじめ》より大志ありしにはあらず、官吏の苛虐《かぎゃく》するところとなって而《しこう》して後爆裂|迸発《へいはつ》して※[#「諂のつくり+炎」、第3水準1−87−64]《ほのお》を揚げしのみ。其の永楽帝の賽児を索《もと》むる甚だ急なりしに考うれば、賽児の徒|窘窮《きんきゅう》して戈《ほこ》を執《と》って立つに及び、或《あるい》は建文を称して永楽に抗するありしも亦知るべからず。永楽の時、史に曲筆多し、今いずくにか其《その》実《じつ》を知るを得ん。永楽|簒奪《さんだつ》して功を成す、而《しか》も聡明《そうめい》剛毅《ごうき》、政《まつりごと》を為《な》す甚だ精、補佐《ほさ》また賢良多し。こゝを以て賽児の徒|忽《たちまち》にして跡を潜むと雖《いえど》も、若《も》し秦末《しんまつ》漢季《かんき》の如《ごと》きの世に出《い》でしめば、陳渉《ちんしょう》張角《ちょうかく》、終《つい》に天下を動かすの事を為《な》すに至りたるやも知る可《べ》からず。嗚呼《ああ》賽児も亦|奇女子《きじょし》なるかな。而して此《この》奇女子を藉《か》りて建文に与《くみ》し永楽と争わしむ。女仙外史の奇、其《そ》の奇を求めずして而しておのずから然《しか》るあらんのみ。然りと雖も予《よ》猶《なお》謂《おも》えらく、
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