、蓋《けだ》し未《いま》だ十の三四を卒《おわ》るに及ばずして、筆硯《ひっけん》空しく曲亭の浄几《じょうき》に遺《のこ》りて、主人既に逝《ゆ》きて白玉楼《はくぎょくろう》の史《し》となり、鹿鳴草舎《はぎのや》の翁《おきな》これを続《つ》げるも、亦《また》功を遂げずして死せるを以《もっ》て、世|其《そ》の結構の偉《い》、輪奐《りんかん》の美を観《み》るに至らずして已《や》みたり。然《しか》れども其の意を立て材を排する所以《ゆえん》を考うるに、楠氏《なんし》の孤女《こじょ》を仮《か》りて、南朝の為《ため》に気を吐かんとする、おのずから是《こ》れ一大文章たらずんば已《や》まざるものあるをば推知するに足るあり。惜《おし》い哉《かな》其の成らざるや。
侠客伝は女仙外史《じょせんがいし》より換骨脱胎《かんこつだったい》し来《きた》る。其の一部は好逑伝《こうきゅうでん》に藉《よ》るありと雖《いえど》も、全体の女仙外史を化《か》し来《きた》れるは掩《おお》う可《べ》からず。此《これ》の姑摩媛《こまひめ》は即《すなわ》ち是《こ》れ彼《かれ》の月君《げっくん》なり。月君が建文帝《けんぶんてい》の為に兵を挙ぐるの事は、姑摩媛が南朝の為に力を致さんとするの藍本《らんぽん》たらずんばあらず。此《こ》は是《こ》れ馬琴が腔子裏《こうしり》の事なりと雖《いえど》も、仮《かり》に馬琴をして在らしむるも、吾《わ》が言を聴かば、含笑《がんしょう》して点頭《てんとう》せん。
女仙外史一百回は、清《しん》の逸田叟《いつでんそう》、呂熊《りょゆう》、字《あざな》は文兆《ぶんちょう》の著《あらわ》すところ、康熙《こうき》四十年に意を起して、四十三年秋に至りて業を卒《おわ》る。其《そ》の書の体《たい》たるや、水滸伝《すいこでん》平妖伝《へいようでん》等に同じと雖《いえど》も、立言《りつげん》の旨《し》は、綱常《こうじょう》を扶植《ふしょく》し、忠烈を顕揚するに在りというを以《もっ》て、南安《なんあん》の郡守|陳香泉《ちんこうせん》の序、江西《こうせい》の廉使《れんし》劉在園《りゅうざいえん》の評、江西の学使|楊念亭《ようねんてい》の論、広州《こうしゅう》の太守|葉南田《しょうなんでん》の跋《ばつ》を得て世に行わる。幻詭猥雑《げんきわいざつ》の談に、干戈《かんか》弓馬の事を挿《はさ》み、慷慨《こうがい》節義の譚《だん》に、神仙縹緲《しんせんひょうびょう》の趣《しゅ》を交《まじ》ゆ。西遊記《さいゆうき》に似て、而《しか》も其の誇誕《こたん》は少しく遜《ゆず》り、水滸伝に近くして、而も其《そ》の豪快は及ばず、三国志の如《ごと》くして、而も其の殺伐はやゝ少《すくな》し。たゞ其の三者の佳致《かち》を併有して、一編の奇話を構成するところは、女仙外史の西遊水滸三国諸書に勝《まさ》る所以《ゆえん》にして、其の大体の風度《ふうど》は平妖伝に似たりというべし。憾《うら》むらくは、通篇《つうへん》儒生《じゅせい》の口吻《こうふん》多くして、説話は硬固勃率《こうこぼっそつ》、談笑に流暢尖新《りゅうちょうせんしん》のところ少《すくな》きのみ。
女仙外史の名は其の実《じつ》を語る。主人公|月君《げっくん》、これを輔《たす》くるの鮑師《ほうし》、曼尼《まんに》、公孫大娘《こうそんたいじょう》、聶隠娘《しょういんじょう》等皆女仙なり。鮑聶《ほうしょう》等の女仙は、もと古伝雑説より取り来《きた》って彩色となすに過ぎず、而《しこう》して月君は即《すなわ》ち山東蒲台《さんとうほだい》の妖婦《ようふ》唐賽児《とうさいじ》なり。賽児の乱をなせるは明《みん》の永楽《えいらく》十八年二月にして、燕《えん》王の簒奪《さんだつ》、建文《けんぶん》の遜位《そんい》と相関するあるにあらず、建文|猶《なお》死せずと雖《いえども》、簒奪の事成って既に十八春秋を経《へ》たり。賽児何ぞ実に建文の為《ため》に兵を挙げんや。たゞ一婦人の身を以て兵を起し城を屠《ほふ》り、安遠侯《あんえんこう》柳升《りゅうしょう》をして征戦に労し、都指揮《としき》衛青《えいせい》をして撃攘《げきじょう》に力《つと》めしめ、都指揮|劉忠《りゅうちゅう》をして戦歿《せんぼつ》せしめ、山東の地をして一時|騒擾《そうじょう》せしむるに至りたるもの、真に是《こ》れ稗史《はいし》の好題目たり。之《これ》に加うるに賽児が洞見《どうけん》預察の明《めい》を有し、幻怪|詭秘《きひ》の術を能《よ》くし、天書宝剣を得て、恵民《けいみん》布教の事を為《な》せるも、亦《また》真に是れ稗史の絶好資料たらずんばあらず。賽児の実蹟《じっせき》既に是《かく》の如《ごと》し。此《これ》を仮《か》り来《きた》りて以《もっ》て建文の位を遜《ゆず》れるに涙を堕《おと》し、燕棣《えんてい》の国
前へ
次へ
全58ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
幸田 露伴 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング