》ともに艱《かた》く、左思右慮《さしゆうりょ》、心|終《つい》に決する能わねば、苦悶《くもん》の色は面にもあらわれたり。信が母疑いて、何事のあればにや、汝《なんじ》の深憂太息することよ、と詰《なじ》り問う。信是非に及ばず、事の始末を告ぐれば、母|大《おおい》に驚いて曰く、不可なり、汝が父の興《こう》、毎《つね》に言えり王気《おうき》燕に在りと、それ王者は死せず、燕王は汝の能《よ》く擒《とりこ》にするところにあらざるなり、燕王に負《そむ》いて家を滅することなかれと。信|愈々《いよいよ》惑《まど》いて決せざりしに、勅使信を促すこと急なりければ、信|遂《つい》に怒って曰く、何ぞ太甚《はなはだ》しきやと。乃《すなわち》ち意を決して燕邸に造《いた》る。造ること三たびすれども、燕王疑いて而して辞し、入ることを得ず。信婦人の車に乗じ、径《ただ》ちに門に至りて見《まみ》ゆることを求め、ようやく召入《めしい》れらる。されども燕王|猶《なお》疾《やまい》を装いて言《ものい》わず。信曰く、殿下|爾《しか》したもう無かれ、まことに事あらば当《まさ》に臣に告げたもうべし、殿下もし情《じょう》を以て臣に語りたまわずば、上命あり、当《まさ》に執《とら》われに就きたもうべし、如《も》し意あらば臣に諱《い》みたもう勿《なか》れと。燕王信の誠《まこと》あるを見、席を下りて信を拝して曰く、我が一家を生かすものは子《し》なりと。信つぶさに朝廷の燕を図るの状を告ぐ。形勢は急転直下せり。事態は既に決裂せり。燕王は道衍《どうえん》を召して、将《まさ》に大事を挙《あ》げんとす。
 天|耶《か》、時《とき》耶、燕王の胸中|颶母《ばいぼ》まさに動いて、黒雲《こくうん》飛ばんと欲し、張玉《ちょうぎょく》、朱能《しゅのう》等《ら》の猛将|梟雄《きょうゆう》、眼底紫電|閃《ひらめ》いて、雷火発せんとす。燕府《えんぷ》を挙《こぞ》って殺気|陰森《いんしん》たるに際し、天も亦《また》応ぜるか、時|抑《そも》至れるか、※[#「風にょう+炎」、第4水準2−92−35]風《ひょうふう》暴雨卒然として大《おおい》に起りぬ。蓬々《ほうほう》として始まり、号々として怒り、奔騰狂転せる風は、沛然《はいぜん》として至り、澎然《ほうぜん》として瀉《そそ》ぎ、猛打乱撃するの雨と伴《とも》なって、乾坤《けんこん》を震撼《しんかん》し、樹石《じゅせき》を動盪《どうとう》しぬ。燕王の宮殿|堅牢《けんろう》ならざるにあらざるも、風雨の力大にして、高閣の簷瓦《えんが》吹かれて空《くう》に飄《ひるがえ》り、※[#「(ぼう+彡)/石」、第4水準2−82−32]然《かくぜん》として地に堕《お》ちて粉砕したり。大事を挙げんとするに臨みて、これ何の兆《ちょう》ぞ。さすがの燕王も心に之を悪《にく》みて色|懌《よろこ》ばず、風声雨声、竹折るゝ声、樹《き》裂くる声、物凄《ものすさま》じき天地を睥睨《へいげい》して、惨として隻語無く、王の左右もまた粛《しゅく》として言《ものい》わず。時に道衍《どうえん》少しも驚かず、あな喜ばしの祥兆《しょうちょう》や、と白《もう》す。本《もと》より此《こ》の異僧道衍は、死生禍福の岐《ちまた》に惑うが如き未達《みだつ》の者にはあらず、膽《きも》に毛も生《お》いたるべき不敵の逸物《いちもつ》なれば、さきに燕王を勧めて事を起さしめんとしける時、燕王、彼は天子なり、民心の彼に向うを奈何《いかん》、とありけるに、昂然《こうぜん》として答えて、臣は天道を知る、何ぞ民心を論ぜん、と云いけるほどの豪傑なり。されども風雨|簷瓦《えんが》を堕《おと》す。時に取っての祥《さが》とも覚えられぬを、あな喜ばしの祥兆といえるは、余りに強言《きょうげん》に聞えければ、燕王も堪《こら》えかねて、和尚《おしょう》何というぞや、いずくにか祥兆たるを得る、と口を突いてそゞろぎ罵《ののし》る。道衍騒がず、殿下|聞《きこ》しめさずや、飛龍天に在れば、従うに風雨を以《もっ》てすと申す、瓦《かわら》墜《お》ちて砕けぬ、これ黄屋《こうおく》に易《かわ》るべきのみ、と泰然として対《こた》えければ、王も頓《とみ》に眉《まゆ》を開いて悦《よろこ》び、衆将も皆どよめき立って勇みぬ。彼《かの》邦《くに》の制、天子の屋《おく》は、葺《ふ》くに黄瓦《こうが》を以てす、旧瓦は用無し、まさに黄なるに易《かわ》るべし、といえる道衍が一語は、時に取っての活人剣、燕王宮中の士気をして、勃然《ぼつぜん》凛然《りんぜん》、糾々然《きゅうきゅうぜん》、直《ただち》にまさに天下を呑《の》まんとするの勢《いきおい》をなさしめぬ。
 燕王は護衛指揮張玉朱能等をして壮士八百人をして入って衛《まも》らしめぬ。矢石《しせき》未《いま》だ交《まじわ》るに至らざるも、刀鎗《とうそう》既に互《た
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