しが、帝曰く、至親《ししん》問う勿《なか》れと。戸部侍郎《こぶじろう》卓敬《たくけい》、先に書を上《たてまつ》って藩を抑え禍《わざわい》を防がんことを言う。復《また》密奏して曰く、燕王は智慮人に過ぐ、而して其の拠る所の北平《ほくへい》は、形勝の地にして、士馬《しば》精強に、金《きん》元《げん》の由って興るところなり、今|宜《よろ》しく封《ほう》を南昌《なんしょう》に徒《うつ》したもうべし。然《しか》らば則《すなわ》ち万一の変あるも控制《こうせい》し易《やす》しと、帝|敬《けい》に対《こた》えたまわく、燕王は骨肉至親なり、何ぞ此《これ》に及ぶことあらんやと。敬曰く、隋《ずい》文揚広《ぶんようこう》は父子にあらずやと。敬の言実に然り。揚広は子を以てだに父を弑《しい》す。燕王の傲慢《ごうまん》なる、何をか為《な》さゞらん。敬の言、敦厚《とんこう》を欠き、帝の意、醇正《じゅんせい》に近しと雖《いえど》も、世相の険悪にして、人情の陰毒なる、悲《かなし》む可《べ》きかな、敬の言|却《かえ》って実に切なり。然れども帝黙然たること良《やや》久しくして曰く、卿《けい》休せよと。三月に至って燕王国に還《かえ》る。都御史《とぎょし》暴昭《ぼうしょう》、燕邸《えんてい》の事を密偵して奏するあり。北平の按察使《あんさつし》僉事《せんじ》の湯宗《とうそう》、按察使《あんさつし》陳瑛《ちんえい》が燕の金《こがね》を受けて燕の為に謀ることを劾《がい》するあり。よって瑛《えい》を逮捕し、都督|宗忠《そうちゅう》をして兵三万を率《ひき》い、及び燕王府の護衛の精鋭を忠の麾下《きか》に隷《れい》し、開平《かいへい》に屯《とん》して、名を辺に備うるに藉《か》り、都督の耿※[#「王+獻」、UCS−74DB、284−4]《こうけん》に命じて兵を山海関《さんかいかん》に練り、徐凱《じょがい》をして兵を臨清《りんせい》に練り、密《ひそか》に張※[#「日/丙」、第3水準1−85−16]《ちょうへい》謝貴《しゃき》に勅して、厳に北平《ほくへい》の動揺を監視しせしむ。燕王此の勢を視《み》、国に帰れるより疾《やまい》に托《たく》して出でず、之《これ》を久しゅうして遂に疾《やまい》篤《あつ》しと称し、以て一時の視聴を避《さ》けんとせり。されども水あるところ湿気無き能《あた》わず、火あるところは燥気《そうき》無き能わず、六月に至りて燕山の護衛百戸|倪諒《げいりょう》というもの変を上《たてまつ》り、燕の官校于《かんこうう》諒周鐸《りょうしゅうたく》等《ら》の陰事を告げゝれば、二人は逮《とら》えられて京《けい》に至り、罪明らかにして誅《ちゅう》せられぬ。こゝに於て事《こと》燕王に及ばざる能わず、詔《みことのり》ありて燕王を責む。燕王|弁疏《べんそ》する能わざるところありけん、佯《いつわ》りて狂となり、号呼疾走して、市中の民家に酒食《しゅし》を奪い、乱語妄言、人を驚かして省みず、或《あるい》は土壌に臥《ふ》して、時を経《ふ》れど覚めず、全く常を失えるものゝ如《ごと》し。張※[#「日/丙」、第3水準1−85−16]《ちょうへい》謝貴《しゃき》の二人、入りて疾《やまい》を問うに、時まさに盛夏に属するに、王は爐《ろ》を囲み、身を顫《ふる》わせて、寒きこと甚《はななだ》しと曰《い》い、宮中をさえ杖《つえ》つきて行く。されば燕王まことに狂したりと謂《おも》う者もあり、朝廷も稍《やや》これを信ぜんとするに至りけるが、葛誠《かつせい》ひそかに※[#「日/丙」、第3水準1−85−16]と貴とに告げて、燕王の狂は、一時の急を緩《ゆる》くして、後日の計《けい》に便にせんまでの詐《いつわり》に過ぎず、本《もと》より恙無《つつがな》きのみ、と知らせたり。たま/\燕王の護衛百戸の※[#「登+おおざと」、第3水準1−92−80]庸《とうよう》というもの、闕《けつ》に詣《いた》り事を奏したりけるを、斉泰|請《こ》いて執《とら》えて鞠問《きくもん》しけるに、王が将《まさ》に兵を挙げんとするの状をば逐一に白《もう》したり。
 待設《まちもう》けたる斉泰は、たゞちに符を発し使《し》を遣わし、往《ゆ》いて燕府の官属を逮捕せしめ、密《ひそか》に謝貴《しゃき》張※[#「日/丙」、第3水準1−85−16]《ちょうへい》をして、燕府に在りて内応を約せる長史《ちょうし》葛誠《かつせい》、指揮《しき》盧振《ろしん》と気脈を通ぜしめ、北平|都指揮《としき》張信《ちょうしん》というものゝ、燕王の信任するところとなるを利し、密勅を下して、急に燕王を執《とら》えしむ。信《しん》は命を受けて憂懼《ゆうく》為《な》すところを知らず、情誼《じょうぎ》を思えば燕王に負《そむ》くに忍びず、勅命を重んずれば私恩を論ずる能《あた》わず、進退両難にして、行止《こうし
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