い》にして城府を設けず、自ら号して坦坦翁《たんたんおう》といえるにも、其の風格は推知すべし。坦坦翁、生平《せいへい》実に坦坦、文章学術を以て太祖に仕え、礼儀の制、選挙の法を定むるの議に与《あずか》りて定むる所多く、帝の洪範《こうはん》の注成るや、命を承《う》けて序を為《つく》り、勅修《ちょくしゅう》の書、省躬録《せいきゅうろく》、書伝会要《しょでんかいよう》、礼制集要《れいせいしゅうよう》等の編撰《へんせん》総裁となり、居然《きょぜん》たる一宿儒を以て、朝野の重んずるところたり。而して大節《たいせつ》に臨むに至りては、屹《きつ》として奪う可《べ》からず。懿文《いぶん》太子の薨《こう》ずるや、身を挺《ぬき》んでゝ、皇孫は世嫡《せいちゃく》なり、大統を承《う》けたまわんこと、礼|也《なり》、と云いて、内外の疑懼《ぎく》を定め、太孫を立てゝ儲君《ちょくん》となせし者は、実に此の劉三吾たりしなり。三吾太祖の意を知るや、何ぞ言《げん》無からん、乃《すなわ》ち曰《いわ》く、若《も》し燕王を立て給《たま》わば秦王《しんおう》晋王《しんおう》を何の地に置き給わんと。秦王|※[#「木+爽」、UCS−6A09、265−7]《そう》、晋王|棡《こう》は、皆燕王の兄たり。孫《そん》を廃して子《し》を立つるだに、定まりたるを覆《かえ》すなり、まして兄を越して弟を君とするは序を乱るなり、世《よ》豈《あに》事無くして已《や》まんや、との意は言外に明らかなりければ、太祖も英明絶倫の主なり、言下に非を悟りて、其《その》事|止《や》みけるなり。是《かく》の如き事もありしなれば、太祖みずから崩後の動揺を防ぎ、暗中の飛躍を遏《とど》めて、特《こと》に厳しく皇太孫允※[#「火+文」、第4水準2−79−61]|宜《よろ》しく大位に登るべしとは詔を遺《のこ》されたるなるべし。太祖の治《ち》を思うの慮《りょ》も遠く、皇孫を愛するの情も篤《あつ》しという可し。葬祭の儀は、漢の文帝の如《ごと》くせよ、と云える、天下の臣民は哭臨《こくりん》三日にして服を釈《と》き、嫁娶《かしゅ》を妨ぐる勿《なか》れ、と云える、何ぞ倹素《けんそ》にして仁恕《じんじょ》なる。文帝の如くせよとは、金玉《きんぎょく》を用いる勿れとなり。孝陵の山川は其の故《もと》に因れとは、土木を起す勿れとなり。嫁娶を妨ぐる勿れとは、民をして福《さいわい》あらしめんとなり。諸王は国中に臨《なげ》きて、京に至るを得る無かれ、と云えるは、蓋《けだ》し其《その》意《い》諸王其の封を去りて京に至らば、前代の遺※[#「薛/子」、第3水準1−47−55]《いげつ》、辺土の黠豪《かつごう》等、或《あるい》は虚に乗じて事を挙ぐるあらば、星火も延焼して、燎原《りょうげん》の勢を成すに至らんことを虞《おそ》るるに似たり。此《こ》も亦《また》愛民憂世の念、おのずから此《ここ》に至るというべし。太祖の遺詔、嗚呼《ああ》、何ぞ人を感ぜしむるの多きや。
然《しか》りと雖《いえど》も、太祖の遺詔、考う可《べ》きも亦《また》多し。皇太孫|允※[#「火+文」、第4水準2−79−61]《いんぶん》、天下心を帰す、宜《よろ》しく大位に登るべし、と云《い》えるは、何ぞや。既に立って皇太孫となる。遺詔無しと雖も、当《まさ》に大位に登るべきのみ。特に大位に登るべしというは、朝野の間、或《あるい》は皇太孫の大位に登らざらんことを欲する者あり、太孫の年|少《わか》く勇《ゆう》乏しき、自ら謙譲して諸王の中《うち》の材雄に略大なる者に位を遜《ゆず》らんことを欲する者ありしが如《ごと》きをも猜《すい》せしむ。仁明孝友、天下心を帰す、と云えるは、何ぞや。明《みん》の世を治むる、纔《わずか》に三十一年、元《げん》の裔《えい》猶《なお》未《いま》だ滅びず、中国に在るもの無しと雖《いえど》も、漠北《ばくほく》に、塞西《さいせい》に、辺南《へんなん》に、元の同種の広大の地域を有して※[#「足へん+番」、第4水準2−89−49]踞《ばんきょ》するもの存し、太祖崩じて後二十余年にして猶大に興和《こうわ》に寇《あだ》するあり。国外の情《じょう》是《かく》の如し。而《しこう》して域内の事、また英主の世を御せんことを幸《さいわい》とせずんばあらず。仁明孝友は固《もと》より尚《たっと》ぶべしと雖も、時勢の要するところ、実は雄材大略なり。仁明孝友、天下心を帰するというと雖も、或《あるい》は恐る、天下を十にして其の心を帰する者七八に過ぎざらんことを。中外文武臣僚、心を同じゅうして輔祐《ほゆう》し、以《もっ》て吾《わ》が民を福《さいわい》せよ、といえるは、文武臣僚の中、心を同じゅうせざる者あるを懼《おそ》るゝに似たり。太祖の心、それ安んぜざる有る耶《か》、非《ひ》耶《か》。諸王は国中に臨《なげ》
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