九月、懿文太子の後を承《う》けて其《その》御子《おんこ》允※[#「火+文」、第4水準2−79−61]皇太孫の位に即《つ》かせたもう。継紹《けいしょう》の運まさに是《かく》の如くなるべきが上に、下《しも》は四海の心を繋《か》くるところなり。上《かみ》は一|人《にん》の命《めい》を宣したもうところなり、天下皆喜びて、皇室万福と慶賀したり。太孫既に立ちて皇太孫となり、明らかに皇儲《こうちょ》となりたまえる上は、齢《よわい》猶《なお》弱くとも、やがて天下の君たるべく、諸王|或《あるい》は功あり或は徳ありと雖《いえど》も、遠からず俯首《ふしゅ》して命《めい》を奉ずべきなれば、理に於《おい》ては当《まさ》に之《これ》を敬すべきなり。されども諸王は積年の威を挟《はさ》み、大封の勢《いきおい》に藉《よ》り、且《かつ》は叔父《しゅくふ》の尊きを以《もっ》て、不遜《ふそん》の事の多かりければ、皇太孫は如何《いか》ばかり心苦しく厭《いと》わしく思いしみたりけむ。一日《いちじつ》東角門《とうかくもん》に坐して、侍読《じどく》の太常卿《たいじょうけい》黄子澄《こうしちょう》というものに、諸王|驕慢《きょうまん》の状を告げ、諸《しょ》叔父《しゅくふ》各大封|重兵《ちょうへい》を擁し、叔父の尊きを負《たの》みて傲然《ごうぜん》として予に臨む、行末《ゆくすえ》の事も如何《いかが》あるべきや、これに処し、これを制するの道を問わんと曰《のたま》いたもう。子澄名は※[#「さんずい+是」、第3水準1−86−90]《てい》、分宜《ぶんぎ》の人、洪武十八年の試に第一を以て及第したりしより累進してこゝに至れるにて、経史に通暁せるはこれ有りと雖《いえど》も、世故《せいこ》に練達することは未《いま》だ足らず、侍読の身として日夕奉侍すれば、一意たゞ太孫に忠ならんと欲して、かゝる例は其《その》昔にも見えたり、但し諸王の兵多しとは申せ、もと護衛の兵にして纔《わずか》に身ずから守るに足るのみなり、何程の事かあらん、漢の七国を削るや、七国|叛《そむ》きたれども、間も無く平定したり、六師一たび臨まば、誰《たれ》か能《よ》く之を支えん、もとより大小の勢、順逆の理、おのずから然るもの有るなり、御心《みこころ》安く思召《おぼしめ》せ、と七国の古《いにしえ》を引きて対《こた》うれば、太孫は子澄が答を、げに道理《もっとも》なりと信じたまいぬ。太孫|猶《なお》齢《とし》若く、子澄未だ世に老いず、片時《へんじ》の談、七国の論、何ぞ図《はか》らん他日山崩れ海|湧《わ》くの大事を生ぜんとは。
太祖の病は洪武三十一年五月に起りて、同《どう》閏《うるう》五月|西宮《せいきゅう》に崩ず。其《その》遺詔こそは感ずべく考うべきこと多けれ。山戦野戦又は水戦、幾度《いくたび》と無く畏《おそ》るべき危険の境を冒して、無産無官又|無家《むか》、何等《なんら》の恃《たの》むべきをも有《も》たぬ孤独の身を振い、終《つい》に天下を一統し、四海に君臨し、心を尽して世を治め、慮《おも》[#ルビの「おも」は底本では「おもい」]い竭《つく》して民を済《すく》い、而《しこう》して礼を尚《たっと》び学を重んじ、百|忙《ぼう》の中《うち》、手に書を輟《や》めず、孔子の教《おしえ》を篤信し、子《し》は誠に万世の師なりと称して、衷心より之を尊び仰ぎ、施政の大綱、必ず此《これ》に依拠し、又|蚤歳《そうさい》にして仏理に通じ、内典を知るも、梁《りょう》の武帝の如く淫溺《いんでき》せず、又|老子《ろうし》を愛し、恬静《てんせい》を喜び、自《みず》から道徳経註《どうとくけいちゅう》二巻を撰《せん》し、解縉《かいしん》をして、上疏《じょうそ》の中に、学の純ならざるを譏《そし》らしむるに至りたるも、漢の武帝の如く神仙を好尚《こうしょう》せず、嘗《かつ》て宗濂《そうれん》に謂《い》って、人君|能《よ》く心を清くし欲を寡《すくな》くし、民をして田里に安んじ、衣食に足り、熈々※[#「白+皐」、第4水準2−81−80]々《ききこうこう》として自《みずか》ら知らざらしめば、是れ即ち神仙なりと曰《い》い、詩文を善《よ》くして、文集五十巻、詩集五巻を著《あらわ》せるも、※[#「澹のつくり」、第3水準1−92−8]同《せんどう》と文章を論じては、文はたゞ誠意|溢出《いっしゅつ》するを尚《たっと》ぶと為し、又洪武六年九月には、詔《みことのり》して公文に対偶文辞《たいぐうぶんじ》を用いるを禁じ、無益の彫刻|藻絵《そうかい》を事とするを遏《とど》めたるが如き、まことに通ずること博《ひろ》くして拘《とら》えらるゝこと少《すくな》く、文武を兼《か》ねて有し、智有を併《あわ》せて備え、体験心証皆富みて深き一大偉人たる此の明の太祖、開天行道肇紀立極大聖至神仁文義武俊徳成功高《かいてんこ
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