、抑《そもそも》又|髪《かみ》を薙《な》いで逃れたるか。明史巻一百四十三、牛景先《ぎゅうけいせん》の伝の後に、忠賢奇秘録《ちゅうけんきひろく》および致身録《ちしんろく》等の事を記して、録は蓋《けだ》し晩出附会、信ずるに足らず、の語を以て結び、暗に建文帝|出亡《しゅつぼう》、諸臣|庇護《ひご》の事を否定するの口気あり。然《しか》れども巻三百四、鄭和伝《ていかでん》には、成祖《せいそ》、恵帝《けいてい》の海外に亡《に》げたるを疑い、之《これ》を蹤跡《しょうせき》せんと欲し、且つ兵を異域に輝かし、中国の富強を示さんことを欲すと記《しる》せり。鄭和の始めて西洋に航せしは、燕王志を得てよりの第四年、即《すなわ》ち永楽三年なり。永楽三年にして猶《なお》疑うあるは何ぞや。又|給事中《きゅうじちゅう》胡※[#「さんずい+「勞」の「力」に代えて「火」」、UCS−6FD9、398−8]《こえい》と内侍《ないし》朱祥《しゅしょう》とが、永楽中に荒徼《こうきょう》を遍歴して数年に及びしは、巻二百九十九に見ゆ。仙人《せんにん》張三※[#「蚌のつくり」、第3水準1−14−6]《ちょうさんぼう》を索《もと》めんとすというを其《その》名《な》とすと雖《いえど》も、山谷《さんこく》に仙を索《もと》めしむるが如き、永楽帝の聰明《そうめい》勇決にして豈《あに》真に其《その》事《こと》あらんや。得んと欲するところの者の、真仙にあらずして、別に存するあること、知る可《べ》き也。蓋《けだ》し此《この》時に当って、元の余※[#「薛/子」、第3水準1−47−55]《よけつ》猶《なお》所在に存し、漠北《ばくほく》は論無く、西陲南裔《せいすいなんえい》、亦《また》尽《ことごと》くは明《みん》の化《か》に順《したが》わず、野火《やか》焼けども尽きず、春風吹いて亦生ぜんとするの勢《いきおい》あり。且つや天《てん》一豪傑を鉄門関辺の碣石《けっせき》に生じて、カザン(Kazan)弑《しい》されて後の大帝国を治めしむ。これを帖木児《チモル》(Timur)と為す。西人《せいじん》の所謂《いわゆる》タメルラン也。帖木児《チモル》サマルカンドに拠《よ》り、四方を攻略して威を振《ふる》う甚だ大《だい》に、明《みん》に対しては貢《みつぎ》を納《い》ると雖も、太祖の末年に使《つかい》したる傅安《ふあん》を留《とど》めて帰らしめず、之《これ》を要して領内諸国を歴遊すること数万里ならしめ、既に印度《いんど》を掠《かす》めて、デリヒを取り、波斯《ペルシヤ》を襲い、土耳古《トルコ》を征し、心ひそかに支那《しな》を窺《うかが》い、四百余州を席巻して、大元《たいげん》の遺業を復せんとするあり。永楽帝の燕王たるや、塞北《さいほく》に出征して、よく胡情《こじょう》を知る。部下の諸将もまた夷事《いじ》に通ずる者多し。王の南《みなみ》する、幕中《ばくちゅう》に番騎《ばんき》を蔵す。凡《およ》そ此《これ》等《ら》の事に徴して、永楽帝の塞外《さくがい》の状勢を暁《さと》れるを知るべし。若《も》し建文帝にして走って域外に出《い》で、崛強《くっきょう》にして自大なる者に依《よ》るあらば、外敵は中国を覦《うかが》うの便《べん》を得て、義兵は邦内《ほうない》に起る可《べ》く、重耳《ちょうじ》一たび逃れて却《かえ》って勢を得るが如きの事あらんとす。是《こ》れ永楽帝の懼《おそ》れ憂《うれ》うるところたらずんばあらず。鄭和《ていか》の艦《ふね》を泛《うか》めて遠航し、胡※[#「さんずい+「勞」の「力」に代えて「火」」、UCS−6FD9、401−2]《こえい》の仙《せん》を索《もと》めて遍歴せる、密旨を啣《ふく》むところあるが如し。而《しこう》して又鄭は実に威を海外に示さんとし、胡《こ》は実に異を幽境に詢《と》えるや論無し。善《よ》く射る者は雁影《がんえい》を重ならしめて而して射、善《よ》く謀《はか》る者は機会を復ならしめて而して謀る。一|箭《せん》二|雁《がん》を獲《え》ずと雖《いえど》も、一雁を失わず、一計双功を収めずと雖も、一功を得る有り。永楽帝の智《ち》、豈《あに》敢《あえ》て建文を索《もと》むるを名として使《つかい》を発するを為《な》さんや。況《いわ》んや又鄭和は宦官《かんがん》にして、胡※[#「さんずい+「勞」の「力」に代えて「火」」、UCS−6FD9、400−8]《こえい》と偕《とも》にせるの朱祥《しゅしょう》も内侍《ないし》たるをや。秘意察す可きあるなり。
鄭和《ていか》は王景弘《おうけいこう》等《ら》と共に出《いで》て使《つかい》しぬ。和の出《い》づるや、帝、袁柳荘《えんりゅうそう》の子の袁忠徹《えんちゅうてつ》をして相《そう》せしむ、忠徹|曰《いわ》く可なりと。和の率いる所の将卒二万七千八百余人、舶《ふね》長さ四
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