《きょう》に入れるを看《み》るべし。又|其《そ》の克畏《こくい》の箴《しん》を読めば、あゝ皇《おお》いなる上帝、衷《ちゅう》を人に降《くだ》す、といえるより、其の方《まさ》に昏《くら》きに当ってや、恬《てん》として宜《よろ》しく然《しか》るべしと謂《い》うも、中夜《ちゅうや》静かに思えば夫《そ》れ豈《あに》吾が天ならんや、廼《すなわ》ち奮って而して悲《かなし》み、丞《すみ》やかに前轍《ぜんてつ》を改む、と云い、一念の微なるも、鬼神降監す、安しとする所に安んずる勿《なか》れ、嗜《たしな》む所を嗜む勿れ、といい、表裏|交々《こもごも》修めて、本末一致せんといえる如き、恰《あたか》も神を奉ぜるの者の如き思想感情の漲流《ちょうりゅう》せるを見る。父|克勤《こくきん》の、昼の為せるところ、夜は則《すなわ》ち天に白《もう》したるに合せ考うれば、孝孺が善良の父、方正の師、孔孟《こうもう》の正大純粋の教《おしえ》の徳光《とくこう》恵風《けいふう》に浸涵《しんかん》して、真に心胸《しんきょう》の深処よりして道を体し徳を成すの人たらんことを願えるの人たるを看《み》るべき也。
 孝孺既に文芸を末視《まっし》し、孔孟の学を為《な》し、伊周《いしゅう》の事に任ぜんとす。然《しか》れども其《そ》の文章|亦《また》おのずから佳、前人評して曰く、醇※[#「广+龍」、第3水準1−94−86]博朗《じゅんほうばくろう》[#「醇※[#「广+龍」、第3水準1−94−86]博朗」は底本では「醇※[#「厂+龍」、348−9]博朗」]、沛乎《はいこ》として余《あまり》有り、勃乎《ぼっこ》として禦《ふせ》ぐ莫《な》しと。又曰く、醇深雄邁《じゅんしんゆうまい》と。其の一大文豪たる、世もとより定評あり、動かす可からざるなり。詩は蓋《けだ》し其の心を用いるところにあらずと雖も、亦おのずから観《み》る可し。其の王仲縉感懐《おうちゅうしんかんかい》の韻《いん》に次《じ》する詩の末に句あり、曰く

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壮士 千載《せんざい》の心、
豈《あに》憂へんや 食《し》と衣《い》とを。
由来 海《かい》に浮《うか》ばんの志、
是《こ》れ 軒冕《けんべん》の姿にあらず。
人生 道を聞くを尚《たっと》ぶ、
富貴 復《また》奚《なに》為《す》るものぞ。
賢にして有り 陋巷《ろうこう》の楽《たのしみ》、
聖にして有り 西山《せいざん》の饑《うえ》。
頤《おとがい》を朶《た》る 失ふところ多し、
苦節 未《いま》だ非とす可からず。
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 道衍《どうえん》は豪傑なり、孝孺は君子なり。逃虚子《とうきょし》は歌って曰く、苦節|貞《かた》くすべからずと。遜志斎《そんしさい》は歌って曰く、苦節未だ非とす可からずと。逃虚子は吟じて曰く、伯夷量《はくいりょう》何ぞ隘《せま》きと。遜志斎は吟じて曰く、聖にして有り西山の饑《うえ》と。孝孺又其の※[#「さんずい+「勞」の「力」に代えて「糸」」、UCS−7020、380−4]陽《えいよう》[#ルビの「えいよう」は底本では「けいよう」]を過《よ》ぎるの詩の中の句に吟じて曰く、之に因《よ》って首陽《しゅよう》を念《おも》う、西顧《せいこ》すれば清風《せいふう》生ずと。又|乙丑中秋後《いっちゅうちゅうしゅうご》二日|兄《あに》に寄する詩の句に曰く、苦節|伯夷《はくい》を慕うと。人異なれば情異なり、情異なれば詩異なり。道衍は僧にして、※[#「角+光」、第3水準1−91−91]籌《こうちゅう》又何ぞ数えんといいて、快楽主義者の如く、希直《きちょく》は俗にして、飲《いん》の箴《しん》に、酒の患《うれい》たる、謹者《きんしゃ》をして荒《すさ》み、荘者をして狂し、貴者をして賤《いや》しく、存者《そんしゃ》をして亡《ほろ》ばしむ、といい、酒巵《しゅし》の銘には、親《しん》を洽《あまね》くし衆を和するも、恒《つね》に斯《ここ》に於《おい》てし、禍《わざわい》を造り敗《はい》をおこすも、恒《つね》に斯《ここ》に於てす、其|悪《あく》に懲り、以て善に趨《はし》り、其儀を慎《つつし》むを尚《たっと》ぶ、といえり。逃虚子は仏《ぶつ》を奉じて、而《しか》も順世《じゅんせい》外道《げどう》の如く、遜志斎は儒を尊んで、而《しか》も浄行者《じょうぎょうしゃ》の如し。嗚呼《ああ》、何ぞ其の奇なるや。然《しか》も遜志斎も飲を解せざるにあらず。其の上巳《じょうし》南楼《なんろう》に登るの詩に曰く、

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昔時《せきじ》 喜んで酒を飲み、
白《さかずき》を挙げて 深きを辞せざりき。
茲《ここ》に中歳《ちゅうさい》に及んでよりこのかた、
已《すで》に復《また》 人の斟《く》むを畏《おそ》る。
後生《わかきもの》 ゆるがせにする所多きも、
豈《あに》識《し》ら
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