ず。道衍《どうえん》白《もう》す、虎《とら》を養うは患《うれい》を遺《のこ》すのみと。帝の意|遂《つい》に決す。敬刑せらるゝに臨みて、従容《しょうよう》として嘆じて曰く、変|宗親《そうしん》に起り、略|経画《けいかく》無し、敬死して余罪ありと。神色|自若《じじゃく》たり。死して経宿《けいしゅく》して、面《おもて》猶《なお》生けるが如《ごと》し。三族を誅《ちゅう》し、其《その》家を没するに、家たゞ図書数巻のみ。卓敬と道衍と、故《もと》より隙《げき》ありしと雖《いえど》も、帝をして方孝孺《ほうこうじゅ》を殺さゞらしめんとしたりし道衍にして、帝をして敬を殺さしめんとす。敬の実用の才ありて浮文《ふぶん》の人にあらざるを看《み》るべし。建文の初《はじめ》に当りて、燕を憂うるの諸臣、各《おのおの》意見を立て奏疏《そうそ》を上《たてまつ》る。中に就《つい》て敬の言最も実に切なり。敬の言にして用いらるれば、燕王|蓋《けだ》し志を得ざるのみ。万暦《ばんれき》に至りて、御史《ぎょし》屠叔方《としゅくほう》奏して敬の墓を表し祠《し》を立つ。敬の著すところ、卓氏《たくし》遺書五十巻、予|未《いま》だ目を寓《ぐう》せずと雖《いえど》も、管仲《かんちゅう》魏徴《ぎちょう》の事を以て諷《ふう》せられしの人、其の書必ず観《み》る可《べ》きあらん。


 卓敬《たくけい》を容《い》るゝ能《あた》わざりしも、方孝孺《ほうこうじゅ》を殺す勿《なか》れと云《い》いし道衍《どうえん》は如何《いかん》の人ぞや。眇《びょう》たる一山僧の身を以《もっ》て、燕王《えんおう》を勧めて簒奪《さんだつ》を敢《あえ》てせしめ、定策決機《ていさくけっき》、皆みずから当り、臣《しん》天命を知る、何《なん》ぞ民意を問わん、というの豪懐《ごうかい》を以《もっ》て、天下を鼓動し簸盪《ひとう》し、億兆を鳥飛《ちょうひ》し獣奔《じゅうほん》せしめて憚《はばか》らず、功成って少師《しょうし》と呼ばれて名いわれざるに及んで、而《しか》も蓄髪を命ぜらるれども肯《がえ》んぜず、邸第《ていだい》を賜い、宮人《きゅうじん》を賜われども、辞して皆受けず、冠帯して朝《ちょう》すれども、退けば即《すなわ》ち緇衣《しい》、香烟茶味《こうえんちゃみ》、淡然として生を終り、栄国公《えいこくこう》を贈《おく》られ、葬《そう》を賜わり、天子をして親《み》ずから神道碑《しんどうひ》を製するに至らしむ。又一|箇《こ》の異人《いじん》というべし。魔王の如《ごと》く、道人《どうじん》の如く、策士の如く、詩客《しかく》の如く、実に袁※[#「王+共」、第3水準1−87−92]《えんこう》[#「袁※[#「王+共」、第3水準1−87−92]」は底本では「袁洪」]の所謂《いわゆる》異僧なり。其《そ》の詠ずるところの雑詩の一に曰《いわ》く、

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志士は 苦節を守る、
達人は 玄言《げんげん》に滞《とどこお》らんや。
苦節は 貞《かた》くす可《べ》からず、
玄言 豈《あに》其《そ》れ然《しか》らんや。
出《いづ》ると処《お》ると 固《もと》より定《さだまり》有り、
語るも黙するも 縁無きにあらず。
伯夷《はくい》 量《りょう》 何《なん》ぞ隘《せま》き、

宣尼《せんじ》 智 何ぞ円《えん》なる。
所以《ゆえ》に 古《いにしえ》 の君子、
命《めい》に安んずるを 乃《すなわ》ち賢と為《な》す。
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 苦節は貞《かた》くす可《べ》からずの一句、易《えき》の爻辞《こうじ》の節の上六《しょうりく》に、苦節、貞《かた》くすれば凶なり、とあるに本《もと》づくと雖《いえど》も、口気おのずから是《これ》道衍の一家言なり。況《いわ》んや易の貞凶《ていきょう》の貞は、貞固《ていこ》の貞にあらずして、貞※[#「毎+卜」、345−6]《ていかい》の貞とするの説無きにあらざるをや。伯夷量何ぞ隘《せま》きというに至っては、古賢の言に拠《よ》ると雖も、聖《せい》の清《せい》なる者に対して、忌憚《きたん》無きも亦《また》甚《はなはだ》しというべし。其《そ》の擬古《ぎこ》の詩の一に曰く、

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良辰《りょうしん》 遇《あ》ひ難きを念《おも》ひて、
筵《えん》を開き 綺戸《きこ》に当る。
会す 我が 同門の友、
言笑 一に何ぞ※[#「月+無」、UCS−81B4、346−2]《あじわい》ある。
素絃《そげん》 清《きよき》商《しらべ》を発《おこ》し、
余響《よきょう》 樽爼《そんそ》を繞《めぐ》る。
緩舞《かんぶ》 呉姫《ごき》 出《い》で、
軽謳《けいおう》 越女《えつじょ》 来《きた》る。
但《ただ》欲《ねが》ふ 客《かく》の※[#「てへん+弃」、346−7]酔《へんすい》せんことを、
※[#「角+光」、第3水準
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