、李善長《りぜんちょう》等《ら》の考え設けたるを初《はじめ》とし、洪武六年より七年に亙《わた》りて劉惟謙《りゅういけん》等《ら》の議定するに及びて、所謂《いわゆる》大明律《たいみんりつ》成り、同じ九年|胡惟庸《こいよう》等《ら》命を受けて釐正《りせい》するところあり、又同じ十六年、二十二年の編撰《へんせん》を経て、終《つい》に洪武の末に至り、更定大明律《こうていたいみんりつ》三十巻大成し、天下に頒《わか》ち示されたるなり。呉の元年より茲《ここ》に至るまで、日を積むこと久しく、慮を致すこと精《くわ》しくして、一代の法始めて定まり、朱氏《しゅし》の世を終るまで、獄を決し刑を擬するの準拠となりしかば、後人をして唐に視《くら》ぶれば簡覈《かんかく》、而《しか》して寛厚は宗《そう》に如《し》かざるも、其の惻隠《そくいん》の意に至っては、各条に散見せりと評せしめ、余威は遠く我邦《わがくに》に及び、徳川期の識者をして此《これ》を研究せしめ、明治初期の新律綱領をして此《これ》に採るところあらしむるに至れり。太祖の英明にして意を民人に致せしことの深遠なるは言うまでも無し、太子の仁、太孫の慈、亦《また》人君の度ありて、明律|因《よ》りて以《もっ》て成るというべし。既にして太祖崩じて太孫の位に即《つ》きたもうや、刑官に諭《さと》したまわく、大明律は皇祖の親しく定めさせたまえるところにして、朕《ちん》に命じて細閲せしめたまえり。前代に較《くら》ぶるに往々重きを加う。蓋《けだ》し乱国を刑するの典にして、百世通行の道にあらざる也。朕が前《さき》に改定せるところは、皇祖|已《すで》に命じて施行せしめたまえり。然《しか》れども罪の矜疑《きょうぎ》すべき者は、尚《なお》此《これ》に止《とど》まらず。それ律は大法を設け、礼は人情に順《したが》う。民を斉《ととの》うるに刑を以てするは礼を以てするに若《し》かず。それ天下有司に諭し、務めて礼教を崇《たっと》び、疑獄を赦《ゆる》し、朕が万方《ばんぽう》と与《とも》にするを嘉《よろこ》ぶの意に称《かな》わしめよと。嗚呼《ああ》、既に父に孝にして、又民に慈なり。帝の性の善良なる、誰《たれ》がこれを然らずとせんや。
是《かく》の如きの人にして、帝《みかど》となりて位を保つを得ず、天に帰して諡《おくりな》を得《う》る能《あた》わず、廟《びょう》無く陵無く、西山《せ
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