いざん》の一抔土《いっぽうど》、封《ほう》せず樹《じゅ》せずして終るに至る。嗚呼《ああ》又奇なるかな。しかも其の因縁《いんえん》の糾纏錯雑《きゅうてんさくざつ》して、果報の惨苦悲酸なる、而して其の影響の、或《あるい》は刻毒《こくどく》なる、或は杳渺《ようびょう》たる、奇も亦《また》太甚《はなはだ》しというべし。
建文帝の国を遜《ゆず》らざるを得ざるに至れる最初の因は、太祖の諸子を封ずること過当にして、地を与うること広く、権を附すること多きに基づく。太祖の天下を定むるや、前代の宋《そう》元《げん》傾覆の所以《ゆえん》を考えて、宗室の孤立は、無力不競の弊源たるを思い、諸子を衆《おお》く四方に封じて、兵馬の権を有せしめ、以《もっ》て帝室に藩屏《はんべい》たらしめ、京師《けいし》を拱衛《きょうえい》せしめんと欲せり。是《こ》れ亦《また》故無きにあらず。兵馬の権、他人の手に落ち、金穀の利、一家の有たらずして、将帥《しょうすい》外に傲《おご》り、奸邪《かんじゃ》間《あいだ》に私すれば、一朝事有るに際しては、都城守る能《あた》わず、宗廟《そうびょう》祀《まつ》られざるに至るべし。若《も》し夫《そ》れ衆《おお》く諸侯を建て、分ちて子弟を王とすれば、皇族天下に満ちて栄え、人臣|勢《いきおい》を得るの隙《すき》無し。こゝに於《おい》て、第二子|※[#「木+爽」、UCS−6A09、252−3]《そう》を秦《しん》王に封《ほう》じ、藩に西安《せいあん》に就《つ》かしめ、第三子|棡《こう》を晋《しん》王に封じ、太原府《たいげんふ》に居《お》らしめ、第四子|棣《てい》を封じて燕《えん》王となし、北平府《ほくへいふ》即《すなわ》ち今の北京《ぺきん》に居らしめ、第五子|※[#「木+肅」、UCS−6A5A、252−5]《しゅく》を封じて周《しゅう》王となし、開封府《かいほうふ》に居らしめ、第六子|※[#「木+貞」、第3水準1−85−88]《てい》を楚《そ》王とし、武昌《ぶしょう》に居らしめ、第七子|榑《ふ》を斉《せい》王とし、青州府《せいしゅうふ》に居らしめ、第八子|梓《し》を封じて潭《たん》王とし、長沙《ちょうさ》に居《お》き、第九子|※[#「木+巳」、252−7]《き》を趙《ちょう》王とせしが、此《こ》は三歳にして殤《しょう》し、藩に就くに及ばず、第十子|檀《たん》を生れて二月にして魯《ろ
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