ん、堪えかねて泣き萎《しお》れたもう。翰林学士《かんりんがくし》の劉三吾《りゅうさんご》、御歎《おんなげき》はさることながら、既に皇孫のましませば何事か候うべき、儲君《ちょくん》と仰せ出されんには、四海心を繋《か》け奉らんに、然《さ》のみは御過憂あるべからず、と白《もう》したりければ、実《げ》にもと点頭《うなず》かせられて、其《その》歳《とし》の九月、立てゝ皇太孫と定められたるが、即《すなわ》ち後に建文の帝《みかど》と申す。谷氏《こくし》の史に、建文帝、生れて十年にして懿文《いぶん》卒《しゅっ》すとあるは、蓋《けだ》し脱字《だつじ》にして、父君に別れ、儲位《ちょい》に立ちたまえる時は、正《まさ》しく十六歳におわしける。資性|穎慧《えいけい》温和、孝心深くましまして、父君の病みたまえる間、三歳に亘《わた》りて昼夜|膝下《しっか》を離れたまわず、薨《かく》れさせたもうに及びては、思慕の情、悲哀の涙、絶ゆる間もなくて、身も細々と瘠《や》せ細りたまいぬ。太祖これを見たまいて、爾《なんじ》まことに純孝なり、たゞ子を亡《うしな》いて孫を頼む老いたる我をも念《おも》わぬことあらじ、と宣《のたま》いて、過哀に身を毀《やぶ》らぬよう愛撫《あいぶ》せられたりという。其の性質の美、推して知るべし。
 はじめ太祖、太子に命じたまいて、章奏《しょうそう》を決せしめられけるに、太子仁慈厚くおわしければ、刑獄に於《おい》て宥《なだ》め軽めらるゝこと多かりき。太子|亡《う》せたまいければ、太孫をして事に当らしめたまいけるが、太孫もまた寛厚の性、おのずから徳を植えたもうこと多く、又太祖に請いて、遍《あまね》く礼経《れいけい》を考え、歴代の刑法を参酌《さんしゃく》し、刑律は教《おしえ》を弼《たす》くる所以《ゆえん》なれば、凡《およ》そ五倫《ごりん》と相《あい》渉《わた》る者は、宜《よろ》しく皆法を屈して以《もっ》て情《じょう》を伸ぶべしとの意により、太祖の准許《じゅんきょ》を得て、律の重きもの七十三条を改定しければ、天下|大《おおい》に喜びて徳を頌《しょう》せざる無し。太祖の言《ことば》に、吾《われ》は乱世を治めたれば、刑重からざるを得ざりき、汝《なんじ》は平世を治むるなれば、刑おのずから当《まさ》に軽《かろ》うすべし、とありしも当時の事なり。明の律は太祖の武昌《ぶしょう》を平らげたる呉《ご》の元年に
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