で、運命は全く前定して居るものとすることは虚言《うそ》であります、又全く前定して居ないと申すのも虚言であります。一半は前定して居ると申して宜しい、然し一半は心掛次第行為次第で善くもなり悪くもなると申して宜しい。天然自然に定まつて居るものを先天的運命と申しますならば、当人の心掛や行為より生ずるのを後天的運命と申しませう。自己の修治によつて後天的運命を開拓して、或は先天的運命を善きが上にも善くし、或は先天的運命の悪いのをも善くして行くのが、真の立派な人と申しますので、歴史の上に光輝を残して居る人の如きは、大抵後天的運命を開拓した人なのであります。徒に運命を論ずるが如きは聖賢と雖も御遠慮なさることであります。まして不学凡才の身を以て運命を論じたり、運命を測知しようとするが如きは、蜉蝣といふ虫が大きな樹を撼《うご》かさうとするに類したもので、甚だ詰らぬことであります。されば「如何にあるべきか」を考へるより「如何に為すべきか」を考へる方が、吾人に取つて賢くも有り正しくも有ることであるといふ言は、真実に吾人に忠実な教であります。



底本:「日本の名随筆96 運」作品社
   1990(平成2)
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