印度の古話
幸田露伴

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)いづれの邦《くに》にも

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)桃太郎|猿蟹合戦《さるかにかっせん》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)阿利※[#「咤−宀」、第3水準1−14−85]《ありた》
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 いづれの邦《くに》にも古話《むかしばなし》といふものありて、なかなかに近き頃《ころ》の小説家などの作り設くとも及びがたきおもしろみあるものなり。されど小国民を読むほどの少年諸子には、桃太郎|猿蟹合戦《さるかにかっせん》の類《たぐい》も珍らしからざるべく、また『韓非子《かんぴし》』『荘子《そうじ》』などに出《い》でたるも珍らしからざるべければ、日本支那のは姑《しばら》く措《さしお》きて印度の古話を蒐《あつ》め綴《つづ》り、前《さき》に宝の蔵《くら》と名づけて学齢館の需《もと》めに応じ出版せしめしに、おもひのほかに面白しとて少年諸子の、なほその他《ほか》にも話ありや、あらば聞かせよといひ越し玉《たま》ふもあるまま、今また一条の物語りをここに載すべし。印度は諸子が父上母上の頃には天竺《てんじく》と呼びたる最早《いとはや》くより開け進みし国にて、今日《こんにち》よりして評するも世界の文明の母ともいふべきところなれば、従つて趣味《おもむき》ある古話にも富みたり、御望みならむには随分諸子のために珍奇なる話を取り出《いだ》して一年や二年の間はこの紙上に掲げん。さてこの号には、利※[#「咤−宀」、第3水準1−14−85]《りた》、阿利※[#「咤−宀」、第3水準1−14−85]《ありた》兄弟の譚《はなし》を載すべし。

 むかしむかし、一人《ひとり》の長者《ちょうじゃ》ありて二人《ふたり》の子を有《も》てり。兄を利※[#「咤−宀」、第3水準1−14−85]といひ弟《おとと》を阿利※[#「咤−宀」、第3水準1−14−85]といひしが、長老は常々《つねづね》二人に対《むか》ひて、高きものは堕《お》ち、常なきものは尽き、生あれば死あり、会へるものは離るることあらむと諭《さと》しける。されど一家は常に富み栄えて別に忌《いま》はしきことにも遇《あ》はず、世を楽しく過ごし行きけるに、長老が諭しのあたるべき時は来りて、老《おい》の身に病を得しより長者は枕《まくら》つひにあがらず、いよいよ生命《いのち》終るべく定まりたり。時に長者は二人の子を枕|辺《べ》に招きて、死するも生くるも天命なれば汝等《そちたち》みだりに歎くべからず、ただ我|終焉《いまわ》に臨みて汝等に言ひ置くことあれば能《よ》く心に留めて忘るるなかれ、我《わ》が亡《な》き後《のち》は汝等二人決して分れをることをすべからず、譬《たと》へば一条《ひとすじ》の糸にては象を係《つな》ぐこと難けれど多くの糸を集めて縄《なわ》となさば大象をも係ぐを得べきがごとく、兄弟力を併《あわ》せて家を保たんには家も無事長久なるべけれど汝等互ひに私慾を図りて分れ分れとなりなば、一条の糸の弱きがごとくなりて家も衰へ亡ぶべし、この我が訓《おしえ》を能《よ》く記《おぼ》えて決して背《そむ》くことなかれと苦《ねん》ごろに誡《いまし》め諭して現世《このよ》を逝《さ》りければ、兄弟共に父の遺訓に随《したが》ひて互ひに助けあひつつ安楽に日を消《くら》しけり。
 さるほどに弟も生長して年頃《としごろ》となりしかば、縁ありしを幸《さいわい》として兄はそのため婦《つま》を迎へ遣《や》りしに、この婦心狭くして良《よ》からぬものなりしゆゑ夫に対《むか》ひて、汝《おんみ》はあたかも奴隷《しもべ》のやうなり、金銀用度も皆兄まかせにて我が所有《もの》といふものもなく、唯《ただ》衣《き》ることと食ふこととに不足なさざるばかりなれば奴隷といふても宜《よ》かるべし、汝|如何《いか》ほど働きたりとて唯この家を富ますのみにて汝の所有《もの》の殖《ふ》ゆるにもあらねば、まことに以《もっ》て楽み薄し、と賢顔《かしこがお》に説きければ、弟はこれより分居の心を生じて、兄に財産《しんだい》を分ちくれむことを求めける。兄は、亡き父上の御遺言をも忘れて汝《そなた》は分居せむとや、さても分別違ひのことを能くも汝はいひ得るよ、と度々《たびたび》弟を誡め諭して敢《あえ》て弟のいふところを許さざりしが、弟の堅く分居せんといひ張りて已《や》まぬに打負けて、遂《つい》に一切の財産《しんだい》を正半分《まふたつ》にし、その一方を弟に与へぬ。
 弟夫婦は年少《としわか》きまま無益《むやく》の奢侈《おごり》に財を費《ついや》し、幾時《いくばく》も経ざるに貧しくなりて、兄の許《もと》に合力《ごうり
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