は聞えまいが、このくらいな大声だ。われが耳は打《ぶち》ぬいたろう。どてッ腹へ響いたろう。」
「響いたがどうしたい。」と、雪次郎は鸚鵡《おうむ》がえしで、夜具に凭《もた》れて、両の肩を聳《そび》やかした。そして身構えた。
 が、そのまま何もなくバッタリ留《や》んだ。――聞け、時に、ピシリ、ピシリ、ピシャリと肉を鞭打《むちう》つ音が響く。チンチンチンチンと、微《かすか》に鉄瓶の湯が沸《たぎ》るような音が交《まじ》る。が、それでないと、湯気のけはいも、血汐《ちしお》が噴くようで、凄《すさま》じい。
 雪次郎はハッと立って、座敷の中を四五|度《たび》廻った。――衝《つ》と露台へ出る、この片隅に二枚つづきの硝子《がらす》を嵌《は》めた板戸があって、青い幕が垂れている。晩方の心覚えには、すぐその向うが、おなじ、ここよりは広い露台で、座敷の障子が二三枚|覗《のぞ》かれた――と思う。……そのまま忍寄って、密《そっ》とその幕を引《ひき》なぐりに絞ると、隣室の障子には硝子が嵌め込《こみ》になっていたので、一面に映るように透いて見えた。ああ、顔は見えないが、お澄の色は、あの、姿見に映った時とおなじであろう。真うつむけに背ののめった手が腕のつけもとまで、露呈《あらわ》に白く捻上《ねじあ》げられて、半身の光沢《つや》のある真綿をただ、ふっくりと踵《かかと》まで畳に裂いて、二条《ふたすじ》引伸ばしたようにされている。――ずり落ちた帯の結目《むすびめ》を、みしと踏んで、片膝を胴腹へむずと乗掛《のりかか》って、忘八《くつわ》の紳士が、外套も脱がず、革帯を陰気に重く光らしたのが、鉄の火箸《ひばし》で、ため打ちにピシャリ打ちピシリと当てる。八寸釘を、横に打つようなこの拷掠《ごうりゃく》に、ひッつる肌に青い筋の蜿《うね》るのさえ、紫色にのたうちつつも、お澄は声も立てず、呼吸《いき》さえせぬのである。
「ええ! ずぶてえ阿魔《あま》だ。」
 と、その鉄火箸《かなひばし》を、今は突刺しそうに逆に取った。
 この時、階段の下から跫音《あしおと》が来なかったら、雪次郎は、硝子を破って、血だらけになって飛込んだろう。
 さまでの苦痛を堪《こら》えたな。――あとでお澄の片頬に、畳の目が鑢《やすり》のようについた。横顔で突《つっ》ぷして歯をくいしばったのである。そして、そのくい込んだ畳の目に、あぶら汗にへばりついて、鬢《びん》のおくれ毛が彫込んだようになっていた。その髪の一条《ひとすじ》を、雪次郎が引いてとった時、「あ痛、」と声を上げたくらいであるから。……
 かくまでの苦痛を知らぬ顔で堪えた。――幇間《ほうかん》が帰ってからは、いまの拷掠については、何の気色もしなかったのである。
 銃猟家のいいつけでお澄は茶漬の膳を調えに立った。
 扉《ドア》から雪次郎が密《そっ》と覗くと、中段の処で、肱《ひじ》を硬直に、帯の下の腰を圧《おさ》えて、片手をぐったりと壁に立って、倒れそうにうつむいた姿を見た。が、気勢《けはい》がしたか、ふいに真青《まっさお》な顔して見ると、寂しい微笑を投げて、すっと下りたのである。
 隣室には、しばらく賤《いやし》げに、浅ましい、売女商売の話が続いた。
「何をしてうせおる。――遅いなあ。」
 二度まで爺やが出て来て、催促をされたあとで、お澄が膳を運んだらしい。
「何にもございません。――料理番がちょと休みましたものですから。」
「奈良漬、結構。……お弁当もこれが関でげすぜ、旦那。」
 と、幇間が茶づけをすする音、さらさらさら。スウーと歯ぜせりをしながら、
「天気は極上、大猟でげすぜ、旦那。」
「首途《かどで》に、くそ忌々《いまいま》しい事があるんだ。どうだかなあ。さらけ留《や》めて、一番新地で飲んだろうかと思うんだ。」

       六

「貴方《あなた》、ちょっと……お話がございます。」

 ――弁当は帳場に出来ているそうだが、船頭の来ようが、また遅かった。――
「へい、旦那御機嫌よう。」と三人ばかり座敷へ出ると、……「遅いじゃねえか。」とその御機嫌が大不機嫌。「先刻《さっき》お勝手へ参りましただが、お澄さんが、まだ旦那方、御飯中で、失礼だと言わっしゃるものだで。」――「撃《ぶ》つぞ。出ろ。ここから一発はなしたろか。」と銃猟家が、怒りだちに立った時は、もう横雲がたなびいて、湖の面《おもて》がほんのりと青ずんだ。月は水線に玉を沈めて、雪の晴れた白山に、薄紫の霧がかかったのである。
 早いもので、湖に、小さい黒い点が二つばかり、霧を曳《ひ》いて動いた。船である。
 睡眠《ねむり》は覚めたろう。翼を鳴らせ、朝霜に、光あれ、力あれ、寿《いのちなが》かれ、鷭よ。
 雪次郎は、しかし、青い顔して、露台に湖に面して、肩をしめて立っていた。
 お澄が入って来た――が、すぐに顔が見られなかった。首筋の骨が硬《こわ》ばったのである。

「貴方、ちょっと……お話がございます。」
 お澄が静《しずか》にそう言うと、からからと釣《つり》を手繰って、露台の硝子戸《がらすど》に、青い幕を深く蔽《おお》うた。
 閨《ねや》の障子はまだ暗い。
「何とも申しようがない。」
 雪は※[#「てへん+堂」、第4水準2−13−41]《どう》となって手を支《つ》いた。
「私は懺悔《ざんげ》をする、皆嘘だ。――画工《えかき》は画工で、上野の美術展覧会に出しは出したが、まったくの処は落第したんだ。自棄《やけ》まぎれに飛出したんで、両親には勘当はされても、位牌《いはい》に面目のあるような男じゃない。――その大革鞄《おおかばん》も借《かり》ものです。樊※[#「口+會」、第3水準1−15−25]《はんかい》の盾だと言って、貸した友だちは笑ったが、しかし、破りも裂きも出来ないので、そのなかにたたき込んである、鷭を画《か》いたのは事実です。女郎屋《じょろや》の亭主が名古屋くんだりから、電報で、片山津の戸を真夜中にあけさせた上に、お澄さんほどの女に、髪を結《い》わせ、化粧をさせて、給仕につかせて、供をつれて船を漕《こ》がせて、湖の鷭を狙撃《ねらいうち》に撃って廻る。犬が三頭――三疋とも言わないで、姐さんが奴等《やつら》の口うつしに言うらしい、その三頭も癪《しゃく》に障った。なにしろ、私の画《え》が突刎《つっぱ》ねられたように口惜《くやし》かった。嫉妬《ねたみ》だ、そねみだ、自棄なんです。――私は鷭になったんだ。――鷭が命乞いに来た、と思って堪《こら》えてくれ、お澄さん、堪忍してくれたまえ。いまは、勘定があるばかりだ、ここの勘定に心配はないが、そのほかは何にもない。――無論、私が志を得たら……」
「貴方。」
 とお澄がきっぱり言った。
「身を切られるより、貴方の前で、お恥かしい事ですが、親兄弟を養いますために、私はとうから、あの旦那のお世話になっておりますんです。それも棄て、身も棄てて、死ぬほどの思いをして、あなたのお言葉を貫きました。……あなたはここをお立ちになると、もうその時から、私なぞは、山の鳥です、野の薊《あざみ》です。路傍《みちばた》の塵《ちり》なんです。見返りもなさいますまい。――いいえ、いいえ……それを承知で、……覚悟の上でしました事です。私は女が一生に一度と思う事をしました。貴方、私に御褒美を下さいまし。」
「その、その、その事だよ……実は。」
「いいえ、ほかのものは要りません。ただ一品《ひとしな》。」
「ただ一品。」
「貴方の小指を切って下さい。」
「…………」
「澄に、小指を下さいまし。」
 少からず不良性を帯びたらしいまでの若者が、わなわなと震えながら、
「親が、両親《ふたおや》があるんだよ。」
「私にもございますわ。」
 と凜《りん》と言った。
 拳《こぶし》を握って、屹《きっ》と見て、
「お澄さん、剃刀《かみそり》を持っているか。」
「はい。」
「いや、――食切《くいき》ってくれ、その皓歯《しらは》で。……潔くあなたに上げます。」
 やがて、唇にふくまれた時は、かえって稚児《おさなご》が乳を吸うような思いがしたが、あとの疼痛《いたみ》は鋭かった。
 渠《かれ》は大夜具を頭から引被《ひっかぶ》った。
「看病をいたしますよ。」
 お澄は、胸白く、下じめの他《ほか》に血が浸《にじ》む。……繻子《しゅす》の帯がするすると鳴った。
[#地から1字上げ]大正十二(一九二三)年一月



底本:「泉鏡花集成7」ちくま文庫、筑摩書房
   1995(平成7)年12月4日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第二十二巻」岩波書店
   1940(昭和15)年11月20日第1刷発行
入力:門田裕志
校正:今井忠夫
2003年8月31日作成
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