と、離室《はなれ》の茶室をお好みで、御隠居様御夫婦のお泊りがあるばかり、よい処で、よい折から――と言った癖に……客が膳《ぜん》の上の猪口《ちょく》をちょっと控えて、それはお前さんたちさぞ疲れたろう、大掃除の後の骨休め、という処だ。ここは構わないで、湯にでも入ったら可《よ》かろうと、湯治の客には妙にそぐわない世辞を言うと、言《ことば》に随《つ》いて、ではそうさして頂きます、後生ですわ、と膠《にべ》もなく引退《ひきさが》った。畳も急に暗くなって、客は胴震いをしたあとを呆気《あっけ》に取られた。
 ……思えば、それも便宜《たより》ない。……
 さて下りる階子段は、一曲り曲る処で、一度ぱっと明るく広くなっただけに、下を覗《のぞ》くとなお寂しい。壁も柱もまだ新しく、隙間《すきま》とてもないのに、薄い霧のようなものが、すっと這入《はい》っては、そッと爪尖《つまさき》を嘗《な》めるので、変にスリッパが辷《すべ》りそうで、足許《あしもと》が覚束《おぼつか》ない。
 渠《かれ》は壁に掴《つかま》った。
 掌《てのひら》がその壁の面に触れると、遠くで湯の雫《しずく》の音がした。
 聞き澄《すま》すと、潟の水の、汀《みぎわ》の蘆間《あしま》をひたひたと音訪《おとず》れる気勢《けはい》もする。……風は死んだのに、遠くなり、近くなり、汽車が谺《こだま》するように、ゴーと響くのは海鳴《うみなり》である。
 更に遠く来た旅を知りつつ、沈むばかりに階段を下切《おりき》った。
 どこにも座敷がない、あっても泊客《とまりきゃく》のないことを知った長廊下の、底冷《そこびえ》のする板敷を、影の※[#「彳+尚」、第3水準1−84−33]※[#「彳+羊」、第3水準1−84−32]《さまよ》うように、我ながら朦朧《もうろう》として辿《たど》ると……
「ああ、この音だった。」
 汀の蘆に波の寄ると思ったのが、近々と聞える処に、洗面所のあったのを心着いた。
 機械口が緩《ゆる》んだままで、水が点滴《したた》っているらしい。
 その袖壁の折角《おれかど》から、何心なく中を覗くと、
「あッ。」と、思わず声を立てて、ばたばたと後《あと》へ退《さが》った。
 雪のような女が居て、姿見に真蒼《まっさお》な顔が映った。
 温泉《いでゆ》の宿の真夜中である。

       二

 客は、なまじ自分の他《ほか》に、離室《はなれ》
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