はない。が、女の力だ。あなたの情《なさけ》だ。――この潟の水が一時凍らないとも、火にならないとも限らない。そこが御婦人の力です。勿論まるきり、その人たちに留《や》めさせる事の出来ない事は、解って、あきらめなければならないまでも、手筈《てはず》を違えるなり、故障を入れるなり、せめて時間でも遅れさして、鷭が明らかに夢からさめて、水鳥相当に、自衛の守備の整うようにして、一羽でも、獲ものの方が少く、鳥の助かる方が余計にしてもらいたい。――実は小松からここに流れる桟川《かけはしがわ》で以前――雪間の白鷺を、船で射た友だちがあって、……いままですらりと立って遊んでいたのが、弾丸《たま》の響《ひびき》と一所に姿が横に消えると、颯《さっ》と血が流れたという……話を聞いた事があって、それ一羽、私には他人の鷺でさえ、お澄さんのような女が殺されでもしたように、悚然《ぞっ》として震え上った。――しかるに鷭は恩人です。――姐さん、これはお酌を強請《ねだ》ったような料簡《りょうけん》ではありません。真人間が、真面目《まじめ》に、師の前、両親の前、神仏の前で頼むのとおなじ心で云うんです。――私は孤児《みなしご》だが、かつて志を得たら、東京へ迎えます。と言ううちに、両親はなくなりました。その親たちの位牌《いはい》を、……上野の展覧会の今最中、故郷の寺の位牌堂から移して来たのが、あの、大《おおき》な革鞄《かばん》の中に据えてあります。その前で、謹んで言うのです。――お位牌も、この姐さんに、どうぞお力をお添え下さい。」
 と言った。面《おもて》が白蝋《はくろう》のように色澄んで、伏目で聞入ったお澄の、長い睫毛《まつげ》のまたたくとともに、床《とこ》に置いた大革鞄が、揺れて熊の動くように見えたのである。
「あら! 私……」
 この、もの淑《しずか》なお澄が、慌《あわただ》しく言葉を投げて立った、と思うと、どかどかどかと階子段《はしごだん》を踏立てて、かかる夜陰を憚《はばか》らぬ、音が静寂間《しじま》に湧上《わきあが》った。
「奥方は寝床で、お待ちで。それで、お出迎えがないといった寸法でげしょう。」
 と下から上へ投掛けに肩へ浴びせたのは、旦那に続いた件《くだん》の幇間と頷《うなず》かれる。白い呼吸《いき》もほッほッと手に取るばかり、寒い声だが、生ぬるいことを言う。
「や、お澄――ここか、座敷は。」
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