て》の剣《つるぎ》であつた。
 一|疋《ぴき》、ハツと飛退《とびしさ》つたが、ぶつ/\といふ調子で、
「お刀の汚《けが》れ、お刀の汚れ。」と鳴いた。
 また気勢《けはい》がして、仏壇の扉|細目《ほそめ》に仄見《ほのみ》え給《たま》ふ端厳《たんごん》微妙《みみょう》の御顔《おんかんばせ》。
 蠅は内々《ないない》に、
「観音様、お手が汚《よご》れます。」
「けがれ不浄《ふじょう》のものでござい。」
「不浄のものでござい。」
 と呟《つぶや》きながら、さすがに恐れて静まつた。が、暫時《しばらく》して一個《ひとつ》厭《いや》な声で、
「はゝゝゝはゝ、いや、恁《こう》又《また》ものも汚《きたの》うなると、手がつけられぬから恐るゝことなし。はゝはゝこら、何《ど》うぢやい。」と、ひよいと躍《おど》つた。
 トコトン/\、はらり/\、くるりと廻り、ぶんと飛んで、座は唯《ただ》蠅で蔽《おお》はれて、果《はて》は夥《おびただ》しい哉《かな》渦《うずま》く中に、幼児《おさなご》は息が留《とま》つた。
 恰《あたか》も可《よ》し、中形《ちゅうがた》の浴衣《ゆかた》、繻子《しゅす》の帯、雪の如き手に団扇《うちわ》を提げて、店口《みせぐち》の暖簾《のれん》を分け、月の眉《まゆ》、先《ま》づ差覗《さしのぞ》いて、
「おゝ、大変な蠅だ。」
 と姉が、しなやかに手を振つて、顔に触《さわ》られまいと、俯向《うつむ》きながら、煽《あお》ぎ消すやうに、ヒラヒラと払ふと、そよ/\と起る風の筋《すじ》は、仏の御加護《おんかご》、おのづから、魔を退《しりぞ》くる法《ほう》に合《かな》つて、蠅の同勢《どうぜい》は漂ひ流れ、泳ぐが如くに、むら/\と散つた。
 座に着いて、針箱の引出《ひきだし》から、一糸《いっし》其の色|紅《くれない》なるが、幼児《おさなご》の胸にかゝつて居るのを見て、
「いたづらツ児《こ》ねえ。」と莞爾《にっこり》、寝顔を優しく睨《にら》むと、苺《いちご》が露《つゆ》に艶《つやや》かなるまで、朱の唇に蠅が二つ。
「酷《ひど》いこと!」と柳眉《りゅうび》逆立《さかだ》ち、心《こころ》激《げき》して団扇《うちわ》に及ばず、袂《たもと》の尖《さき》で、向うへ払ふと、怪しい虫の消えた後《あと》を、姉は袖口《そでくち》で噛《か》んで拭《ふ》いて遣《や》りながら、同じ針箱の引出から、二つ折、笹色《ささいろ》
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