わがまま》と存じて遠慮しました。今度ッからは、たとい私をお誑《だま》しでも、蝋燭の嘘を仰有《おっしゃ》るとほんとうに怨みますよ、と優しい含声《ふくみごえ》で、ひそひそと申すんで。
もう、実際嘘は吐《つ》くまい、と思ったくらいでございます。
部屋着を脱ぐと、緋《ひ》の襦袢《じゅばん》で、素足がちらりとすると、ふッ、と行燈を消しました。……底に温味《あたたかみ》を持ったヒヤリとするのが、酒の湧《わ》く胸へ、今にもいい薫《かおり》で颯《さっ》と絡《まつ》わるかと思うと、そうでないので。――
カタカタと暗がりで箪笥《たんす》の抽斗《ひきだし》を開けましたがな。
――水天宮様のをお目に掛けましょう――
そう云って、柔らかい膝の衣摺《きぬず》れの音がしますと、燐寸《マッチ》を※[#「火+發」、248−3]《ぱっ》と摺《す》った。」
「はあ、」
と欣八は、その※[#「火+發」、248−5]とした……瞬きする。
「で、朱塗の行燈の台へ、蝋燭を一|挺《ちょう》、燃えさしのに火を点《とも》して立てたのでございます。」
と熟《じっ》と瞻《みまも》る、とここの蝋燭が真直《まっすぐ》に、細《ほっそ》りと灯が据《すわ》った。
「寂然《しん》としておりますので、尋常《ただ》のじゃない、と何となくその暗い灯に、白い影があるらしく見えました。
これは、下谷の、これは虎の門の、飛んで雑司《ぞうし》ヶ谷のだ、いや、つい大木戸のだと申して、油皿の中まで、十四五挺、一ツずつ消しちゃ頂いて、それで一ツずつ、生々《なまなま》とした香《におい》の、煙……と申して不思議にな、一つ色ではございません。稲荷様《いなりさま》のは狐色と申すではないけれども、大黒天のは黒く立ちます……気がいたすのでございます。少し茶色のだの、薄黄色だの、曇った浅黄がございましたり。
その燃えさしの香《におい》の立つ処を、睫毛《まつげ》を濃く、眉を開いて、目を恍惚《うっとり》と、何と、香《におい》を散らすまい、煙を乱すまいとするように、掌《てのひら》で蔽《おお》って余さず嗅《か》ぐ。
これが薬なら、身体《からだ》中、一筋ずつ黒髪の尖《さき》まで、血と一所に遍《あまね》く膚《はだ》を繞《めぐ》った、と思うと、くすぶりもせずになお冴《さ》える、その白い二の腕を、緋の袖で包みもせずに、……」
聞く欣八は変な顔色《がんしょく》。
「時に……」
と延一は、ギクリと胸を折って、抱えた腕なりに我が膝に突伏《つっぷ》して、かッかッと咳をした。
十
その瞼に朱を灌《そそ》ぐ……汗の流るる額を拭《ぬぐ》って、
「……時に、その枕頭《まくらもと》の行燈《あんどん》に、一挺消さない蝋燭があって、寂然《しん》と間《ま》を照《てら》しておりますんでな。
――あれは――
――水天宮様のお蝋です――
と二つ並んだその顔が申すんでございます。灯の影には何が映るとお思いなさる、……気になること夥《おびただ》しい。
――消さないかい――
――堪忍して――
是非と言えば、さめざめと、名の白露が姿を散らして消えるばかりに泣きますが。推量して下さいまし、愛想尽《あいそづか》しと思うがままよ、鬼だか蛇《じゃ》だか知らない男と一つ処……せめて、神仏《かみほとけ》の前で輝いた、あの、光一ツ暗《やみ》に無うては恐怖《こわ》くて死んでしまうのですもの。もし、気になったら、貴方《あなた》ばかり目をお瞑《つむ》りなさいまし。――と自分は水晶のような黒目がちのを、すっきり※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》って、――昼さえ遊ぶ人がござんすよ、と云う。
可《よ》し、神仏もあれば、夫婦もある。蝋燭が何の、と思う。その蝋燭が滑々《すべすべ》と手に触る、……扱帯《しごき》の下に五六本、襟の裏にも、乳《ち》の下にも、幾本となく忍ばしてあるので、ぎょっとしました。残らず、一度は神仏の目の前で燃え輝いたのでございましょう、……中には、口にするのも憚《はばか》る、荒神《あらがみ》も少くはありません。
ばかりでない。果ては、その中から、別に、綺麗な絵の蝋燭を一挺抜くと、それへ火を移して、銀簪《ぎんかんざし》の耳に透《とお》す。まずどうするとお思いなさる、……後で聞くとこの蝋燭の絵は、その婦《おんな》が、隙《ひま》さえあれば、自分で剳青《ほりもの》のように縫針で彫って、彩色《いろどり》をするんだそうで。それは見事でございます。
また髪は、何十度逢っても、姿こそ服装《なり》こそ変りますが、いつも人柄に似合わない、あの、仰向《あおむ》けに結んで、緋《ひ》や、浅黄や、絞《しぼり》の鹿《か》の子の手絡《てがら》を組んで、黒髪で巻いた芍薬《しゃくやく》の莟《つぼみ》のように、真中《まんなか》へ簪《かんざし》をぐいと挿す、何|転進《てんじん》とか申すのにばかり結う。
何と絵蝋燭を燃したのを、簪で、その髷《まげ》の真中へすくりと立てて、烏羽玉《うばたま》の黒髪に、ひらひらと篝火《かがりび》のひらめくなりで、右にもなれば左にもなる、寝返りもするのでございます。
――こうして可愛がって下さいますなら、私ゃ死んでも本望です――
とこれで見るくらいまた、白露のその美しさと云ってはない。が、いかな事にも、心を鬼に、爪を鷲《わし》に、狼の牙《きば》を噛鳴《かみな》らしても、森で丑《うし》の時|参詣《まいり》なればまだしも、あらたかな拝殿で、巫女《みこ》の美女を虐殺《なぶりごろ》しにするようで、笑靨《えくぼ》に指も触れないで、冷汗を流しました。……
それから悩乱。
因果と思切れません……が、
――まあ嬉しい――
と云う、あの、容子《ようす》ばかりも、見て生命《いのち》が続けたさに、実際、成田へも中山へも、池上、堀の内は申すに及ばず。――根も精も続く限り、蝋燭の燃えさしを持っては通い、持っては通い、身も裂き、骨も削りました。
昏《くら》んだ目は、昼遊びにさえ、その燈《ともしび》に眩《まぶ》しいので。
手足の指を我と折って、頭髪《ずはつ》を掴《つか》んで身悶《みもだ》えしても、婦《おんな》は寝るのに蝋燭を消しません。度かさなるに従って、数を増し、燈《ひ》を殖《ふや》して、部屋中、三十九本まで、一度に、神々の名を輝かして、そして、黒髪に絵蝋燭の、五色の簪を燃して寝る。
その媚《なまめ》かしさと申すものは、暖かに流れる蝋燭より前《さき》に、見るものの身が泥になって、熔《と》けるのでございます。忘れません。
困果と業《ごう》と、早やこの体《てい》になりましたれば、揚代《あげだい》どころか、宿までは、杖に縋《すが》っても呼吸《いき》が切れるのでございましょう。所詮の事に、今も、婦《おんな》に遣わします気で、近い処の縁日だけ、蝋燭の燃えさしを御合力《おごうりょく》に預ります。すなわちこれでございます。」
と袂《たもと》を探ったのは、ここに灯《ひとも》したのは別に、先刻《さっき》の二七のそれであった。
犬のしきりに吠《ほ》ゆる時――
「で、さてこれを何にいたすとお思いなさいます。懺悔《ざんげ》だ、お目に掛けるものがある。」
「大変だ、大変だ。何だって和尚さん、奴もそれまでになったんだ。気の毒だと思ってその女がくれたんだろうね、緋《ひ》の長襦袢《ながじゅばん》をどうだろう、押入の中へ人形のように坐らせた。胴へは何を入れたかね、手も足もないんでさ。顔がと云うと、やがて人ぐらいの大きさに、何十挺だか蝋燭を固めて、つるりとやっぱり蝋を塗って、細工をしたんで。そら、燃えさしの処が上になってるから、ぽちぽち黒く、女鳴神《おんななるかみ》ッて頭でさ。色は白いよ、凄《すご》いよ、お前さん、蝋だもの。
私《わっし》あ反《そ》ったねえ、押入の中で、ぼうとして見えた時は、――それをね、しなしなと引出して、膝へ横抱きにする……とどうです。
欠火鉢《かけひばち》からもぎ取って、その散髪《ざんぎり》みたいな、蝋燭の心へ、火を移す、ちろちろと燃えるじゃねえかね。
ト舌は赤いよ、口に締りをなくして、奴め、ニヤニヤとしながら、また一挺、もう一本、だんだんと火を移すと、幾筋も、幾筋も、ひょろひょろと燃えるのが、搦《から》み合って、空へ立つ、と火尖《ひさき》が伸びる……こうなると可恐《おそろ》しい、長い髪の毛の真赤《まっか》なのを見るようですぜ。
見る見る、お前さん、人前も構う事か、長襦袢の肩を両肱《りょうひじ》へ巻込んで、汝《てめえ》が着るように、胸にも脛《すね》にも搦《から》みつけたわ、裾《すそ》がずるずると畳へ曳《ひ》く。
自然とほてりがうつるんだってね、火の燃える蝋燭は、女のぬくみだッさ、奴が言う、……可《よ》うがすかい。
頬辺《ほっぺた》を窪ますばかり、歯を吸込んで附着《くッつ》けるんだ、串戯《じょうだん》じゃねえ。
ややしばらく、魂が遠くなったように、静《じっ》としていると思うと、襦袢の緋が颯《さっ》と冴えて、揺れて、靡《なび》いて、蝋に紅《あか》い影が透《とお》って、口惜《くやし》いか、悲《かなし》いか、可哀《あわれ》なんだか、ちらちらと白露を散らして泣く、そら、とろとろと煮えるんだね。嗅《か》ぐさ、お前さん、べろべろと舐《な》める。目から蝋燭の涙を垂らして、鼻へ伝わらせて、口へ垂らすと、せいせい肩で呼吸《いき》をする内に、ぶるぶると五体を震わす、と思うとね、横倒れになったんだ。さあ、七顛八倒《しちてんばっとう》、で沼みたいな六畳どろどろの部屋を転摺《のめず》り廻る……炎が搦《から》んで、青蜥蜴《あおとかげ》の※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]打《のたう》つようだ。
私《わっし》あ夢中で逃出した。――突然《いきなり》見附へ駈着《かけつ》けて、火の見へ駈上《かけあが》ろうと思ったがね、まだ田町から火事も出ずさ。
何しろ馬鹿だね、馬鹿も通越しているんだね。」
お不動様の御堂《みどう》を敲《たた》いて、夜中にこの話をした、下塗《したぬり》の欣八が、
「だが、いい女らしいね。」
と、後へ附加えた了簡《りょうけん》が悪かった。
「欣八、気を附けねえ。」
「顔色が変だぜ。」
友達が注意するのを、アハハと笑消して、
「女《あま》がボーッと来た、下町ア火事だい。」と威勢よく云っていた。が、ものの三月と経《た》たぬ中《うち》にこのべらぼう、たった一人の女房の、寝顔の白い、緋手絡《ひてがら》の円髷《まるまげ》に、蝋燭を突刺《つッさ》して、じりじりと燃して火傷《やけど》をさした、それから発狂した。
但し進藤とは違う。陰気でない。縁日とさえあればどこへでも押掛けて、鏝塗《こてぬり》の変な手つきで、来た来たと踊りながら、
「蝋燭をくんねえか。」
怪《あやし》むべし、その友達が、続いて――また一人。…………
[#地から1字上げ]大正二(一九一三)年六月
底本:「泉鏡花集成6」ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年3月21日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第十五卷」岩波書店
1940(昭和15)年9月20日発行
入力:門田裕志
校正:高柳典子
2007年2月11日作成
青空文庫作成ファイル:
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